一時間程の時間を掛けて、辿り着いた先は一つの教会だった。道中に大した事件はなかったので詳細は省く。ただ、敢えて取り上げるなら、ここまで来るのに通った道が、いわゆるデートコースのそれであると気づいた士郎が人知れずやや赤面気味になっていた。それが一番大きな事件といえば事件である。
兎も角、現在教会に入っていったのは士郎と凛だけであり、セイバーとシンジの二人は教会前の広い広場に残された。何故彼らが教会に入らないのか、理由は至って簡単だ。セイバーは自分の意思で残ると言い出したし、シンジは凛にここで待っていろと言われたからだ。
よっておかしな二人組が残されたのである。おかしいというのは主に格好が、だ。片や、雨どころか雲も殆どない夜に黄色い雨合羽を羽織ったセイバーに、どこからどう見てもただの中学生にしか見えないシンジ。どちらも、危険人物だとか非行少年だとか、あらぬ誤解を招きかねない姿である。
ただし、格好とは裏腹にセイバーにはなんら怪しい様子は見られない。世間一般的に見て、晴れの時にするには奇妙な格好であるにも拘らず、その態度は実に堂に入っている。これでは、彼女の格好が変だと思った方こそ逆に自分の方がおかしいのではないかと振り返ってしまうであろう。
対し、シンジはといえば、セイバーとは真逆にというか、手を握ったり開いたりと落ち着きがなかった。彼の気分がすっきりと収まってないときに現れる癖が、目下全開で進行中なのである。
何がそこまで彼を不安にさせているのか。原因はずばりセイバーにあった。彼女はシンジのすぐ後ろにいるのだが、先程からずっと、そして今も彼を睨みつけるように視線を送り続けているのである。そんな彼女と二人っきりという状況が、彼の気分を落ち着かせないのだ。
彼女とは出会って間もない。人見知りの気がある彼にとって、この状態は非常に冷や汗物だ。尤も、雨合羽の奥から静かに、冷たく、何を考えているのか到底推し量ることのできない碧の瞳で見つめられ続ければ、誰だって多大な緊張を強いられるのは間違いない。彼女が人に気さくに話しかけるタイプであったのなら、状況はまた変わったかもしれないが、どうにもそういうタイプではなさそうだと、記憶がない為に人生経験がリセットされているシンジでも容易に知れた。
では、彼から話しかけたらどうか――と言うのは簡単だ。しかし、彼にとってそれはとてつもない重圧だ。彼は、どちらかといえば…どちらかといわずとも、口下手の部類に入る人種である。例を挙げるなら、つい最近からとはいえ、主従関係を(或いは半ば強制的に)結んだ凛との会話ですら、まだまだ二歩も三歩も引いたところがある程だ。始終そんな調子である彼が、固く口を結んだ、しかも些か睨むようにこちらに視線を送り続けているセイバーに、自分から声を掛けることは殆ど不可能事といえる。
最悪、士郎と凛が戻ってくるまで会話のない重苦しい空気が続くかもしれない――シンジはそんな後ろ向き気味の覚悟を決めていた。居心地が悪いのは百も承知だが、状況を動かさないのであれば良くも悪くもならないだろうという魂胆だ。正に逃げの一手だが、彼らしい結論ではあった。
しかし、静寂はすぐさま断ち切られることとなる。意外にも、セイバーから彼に声がかかったのであった。
「少々、いいですか。あなたは確か、シンジ、といいましたか」
「!はっ、はいぃ!な、なんですか?」
漫画であれば、ビクッ!とか効果音がつきそうな反応だった。思わず、声を掛けたセイバーも身を引いてしまう。しかし、そういった人物に対する経験もあるのか、彼女はすぐに表情を戻し、落ち着いて下さいとシンジを宥めた。
「取って食べたりするわけではありません。二、三聞きたいことがあるだけです」
「え…えと……は、はい」
「答えにくいことなら、答えなくて結構です。完全に味方というわけではないのですから」
「あ――いえ…はい。それで、何、ですか?」
セイバーが敢えて一拍置いたのも役立ち、シンジは落ち着きを取り戻していた。無論言うまでも無く、彼女の目論見通りである。相手から情報を正確に取り出すには、自分の態勢だけが整っていても駄目なことを、彼女は経験上よく知っていた。
「では改めて。――あなたは何の英霊でしょうか。いえ、そもそも本当に英霊なのでしょうか」
「え…」
正に単刀直入。ぴしゃりと言い放った一言に固まるシンジを見て確信したか、セイバーは更に言葉を続けた。
「先程のメイガス、いえ貴方の主人の腕には確かに令呪があるようでした。しかし、貶すようで悪いが、私にはどうにも貴方が英霊に属する人物だとは思えない」
「あ…うぅ…」
「…いえ、責めているのではありません。続きを聞いてください。問題はそこではないのですから」
自分で言っておいて、問題はそこではないというのは何事かと、シンジは俯きがちにセイバーを見た。見れば、真っ直ぐ見据えられていた。反射的にシンジは硬直し、彼女の目から、自分の目を逸らすことができなくなった。まるで蛇に睨まれた蛙である。
「そう、問題はそこではないのです。私は確かに貴方に英霊らしさを感じなかった。それにも拘らず、貴方は私の攻撃を止めきった。しかも私はどうやって止められたのかさえ未だに分からない」
「え…それは」
それは違うとシンジは言いかけた。あの時、あの場所で、セイバーの攻撃から自分達を守りきったのは他でもない、藍と呼ばれていた小さな人形である。自分はその間何も出来ず、ただぼうっと突っ立っていただけ。そう、彼は言おうとした。だが、セイバーはその言を遮った。
「違う。貴方は今、真実ではないことを語ろうとしている」
「どうして、ですか。どうして、そう思うんですか?」
シンジにはセイバーの断言こそ信じられない。しかし、彼女は続ける。
「考えてみて欲しい。あの人形にどれほどの力が備わっているかは私も知らない所ですが、あれは自分で動くだけで体が砕けていく状況でした。そして、そんなものが幾ら立ち塞がっても、私の攻撃は止まらない。止められないで進める自信がある」
「……」
自信過剰ではなく、真実を語っているだけ。戦い慣れも、話し慣れもしていないシンジでも容易に納得がいった。セイバーは、彼女は実に良く、自身と藍の戦力差を分かっている。だからこそ生まれた疑問であるのだ。止められないはずの攻撃、しかし実際は止まった。どうしてか?そんなのは決まっている。その場にいた他の誰かが、何かをしたに決まっている。
「だから、僕なんですか…?」
「ええ。あの場で魔力の流れは感じられませんでした。つまりメイガスは何もしていないと考えるのが普通でしょう。そうなれば消去法的に、貴方しか残りません」
当然ながら、セイバーの選択肢では元から大河は除外されている。彼女は見た目も実際も、至って普通の人間であるからだ。しかし、だからといってシンジの納得がいくかといえば、答えはやはり"違う"。
「…いいえ、やっぱり僕は違うと思います」
「それはどうしてですか」
「僕は…僕には、本当に何もできないんですよ。あの時も、セイバーさんが降って来た時も、何が何だかよく分からなくて、できたことといえば震えることだけ……そんな僕が、何か出来たと本当に思うんですか」
ようやく外せた目線を下げに下げ、俯き加減で呟くようにシンジは言った。そして、俯いたために顔の代わりに見えるようになった彼の頭頂部に、以前目線を合わせ続けるセイバーは、しばらく沈黙した。
「――確かに、今の貴方からは何の力も感じられない」
間を空けてのセイバーの一言は、シンジの心に突き刺さった。だが、彼女は構わない。彼が見えていないのを承知で首をゆるゆると左右に振り、しかし、と口にした。
「やはり、私の攻撃を止めたのは貴方です。先程、どうやって止められたか分からないといいましたが、実際のことを述べるととても硬い壁に突き当たった感触がありました。こちらとあちらを強烈に引き裂き、分け隔てるような絶対的な仕切り……それならば、貴方にも心当たりがあるのではありませんか?」
す、とシンジは顔を上げ、ATフィールド、と小さく呟いた。小さすぎるその言葉は、目前のセイバーにすら届かなかったかもしれないが、それでも彼女はしっかりと頷いて見せた。
「断言してもいい。貴方には大きな力がある。それは、私にも匹敵するかもしれない。だから――だから貴方は、もう少し自信を持ってもいい」
とても遠回りで、とても婉曲な言い方。だが、詰まるところセイバーが口にしたのは、シンジを励ます言葉であった。
「あ…え、と…その…」
シンジにもそれが分かったのだろう。しかしながら、少々怖いと感じていた人物からの、突然の激励の言葉だ。これには何と返答したものかと、しどろもどろになってしまった。最後に捻り出したのも、「わ、分かりました」、などという面白くもない言葉で、彼の困惑が現れた結果となった。
しかし、誰であろうこの場で一番困惑している人物とは、励ましの言葉を彼にかけたセイバーであった。初め、彼女は碇シンジという正体不明のサーヴァントの正体を、自分のマスターである士郎の代わりに少しでも明かそうと、口を開いたはずであったのだ。それがどこをどう間違ったか、仕舞いに飛び出したのは敵に塩を送るがごとき言葉。全く持って自分らしくないと、彼女は今、非常に困惑していた。
「あ、あのっ!」
「…なんでしょうか」
「ぇ、ええと…その……ありがとう、ございます。少し自信がついたって言うか…あの、僕、もう少し頑張ってみます」
シンジの態度は、その外見年齢通り幼く、それでいて真摯なものだった。だから、セイバーもそれに突き動かされるように、一度硬化させかけた態度を再び緩め、僅かな笑みを称えながらこう応えたのだった。
「ええ、頑張ってくださいね」
その時丁度、士郎と凛が教会から出てきた。彼らには、セイバーの表情が良く見えず、シンジが問い詰められているようにしか見えなかった(実際には半分そうだ)ので、これがまた少々いざこざを引き起こす種になったのだが――まあ小事であるので、ここではその次の話に移るとする。
「それではシロウ。貴方は――」
セイバーの確認に、士郎は強い頷きを伴って返した。
「ああ。俺は、聖杯戦争に参加する」
セイバーは幾分かホッとしていたのだが、残念ながらその表情の変化を見破れる者はこの場にいなかった。彼女は、自分のマスターである士郎がこの戦いを降りると言い出すのではないかと、内心心配していたのだ。だが、想像に反してそれはなかった。これで彼女も心を落ち着けて頑張れるというものだ。
また、士郎の言葉はそれで終わりではなかった。
「遠坂にも礼を言っておかないとな」
「…何のことかしら?」
凛はすっとぼけた振りをしているが、流石に士郎も彼女の行動が如何に善意的なものかは分かっていた。
「遠坂がいなかったら、きっと俺は何が何だか分からなかったと思う。ここで覚悟を決めることもできなかった。だから…」
「そう。でも礼には及ばないわ。わたしは借りを返しただけよ」
ぴしゃりと凛は言い返す。余りにもハッキリし過ぎていたため、士郎も一瞬それならと納得しかけたが、よくよく考えれば何のことか分からない。
「借り?借りってなんのさ」
ちらりとセイバーを伺ってから、凛は口を開いた。
「セイバーに危うくやられそうになった時、助けてくれたのはあなたの人形よ」
「あ…いや、でもそれは」
「それにセイバーを最終的に止めたのもあなただし。わたしは命の恩人に恩返しをしているだけよ」
「……」
肩を竦めるようにして、さらりと言ってのける凛だが、士郎は納得しない。というよりできない。例えそうだとしても、彼女が自分をここまで助ける理由になりえるだろうか。いいや、なりはしない。ならばどうして、彼女は士郎を助けたのか。簡単に導き出せる答えだ。つまり、単に彼女が優しいだけなのだ。
大体において、本来なら敵である士郎に対し、あれやこれやとお膳立てするのはおかしい。知識がないならそのままにして、不意打ちにしても良かった。覚悟を決める時間も与えず、無理やりにやり込めても良かったはずだ。しかし、彼女はそのどれもしなかった。それは恐らく、彼女のプライドに因るものに違いない。己の敵であろうと、借りは借りとしてきちんと返す。世が世ならば、塩どころか食料も水も相手に送り、その上で勝とうとするのだろう、この少女は。
しかし、だからこそ彼女は気高い。そして強い。
そこまで考えた士郎の心に浮かんだのは、とても敵わないなという気持ちだった。彼は、自分が彼女の助けに見合うだけのことを何もしていないと分かっている。だが同時に、凛が頑として意見を曲げないであろうということも分かってしまった。だから、これ以上この場において何を言っても無駄だと彼は考えた。勿論今借りを返すのが無理と悟っただけであって、近い内にまたどこかで返そういう考えは捨ててはいなかったが。
ただしそれは、凛が敵に回ることを最初から想定していない甘い未来予想図である。もし、その場で口にしていたら、シンジ以外の二人からバッサリ切り捨てられたに違いない。だが、幸か不幸かそれを士郎が喋ることはなかった。そして、やがて彼らは帰路につくこととなった。
帰り道。士郎達は、教会までの行き以上に静かであった。尤も喧嘩をしたとかいう険悪な雰囲気はない。ただ単に、凛もセイバーも話すべきことは話したと思ってそれ以上会話をしようとしなかったし、士郎とシンジは単に話の糸口が見つけられなかったから故の沈黙だ。口下手はこういう時に辛いと男性陣二人が思っていたかどうかは、彼らのみ知る。
ようやく凛が口を開いた頃には、既に士郎宅への帰り道と凛宅への帰り道の分岐点に差し掛かっていた。
「一つ、言っておくけど」
「ああ、何だ遠坂」
「アドバイスはここまでだからね。ここで分かれたら――その後は敵同士よ」
簡潔な言だが、凛の本気は伝わった。そして、セイバーもそれを当然の事として受け止めていた。しかし、士郎とシンジは心底驚いた様子だった。
「…なんでさ。俺はお前と争うつもりはないぞ」
この言葉には、凛の方が驚かされた。思わずはあ?なんて言葉が、素っ頓狂な調子で飛び出してしまった。
「今更?呆れたね、わざわざ教会に連れていってやったのに、まだ分かってないの?」
違う、と士郎が首を横に振った。
「聖杯戦争のことは分かったし、それを理解した上で俺は参加すると決めた。だけど…だけど、遠坂と戦おうなんて考えてない」
士郎の言葉を聞き、凛はこれ見よがしに大きな溜息をついた。若干気だるそうですらある。
「あのね……分からないの?これは戦争なのよ。参加人数が少ないからって小さな争いだと思ったら大間違い。個々のサーヴァントの能力は、下手をすると最新鋭の軍隊にも匹敵するんだから。あなたみたいな甘い考えで乗り切れるものじゃないわ。――――だけどそんな戦いに参加すると決めたのは、誰でもないあなた自身。今更キャンセルはできないわよ」
「ああ、だから分かってる。勿論降りるつもりはない。でも、俺はお前とは戦わない。これまでも、今も、これからも、ずっとだ」
今度は凛が気圧される番だった。士郎の意思は、先程の凛同様とても強固なものであり、ちょっとやそっとの言葉を重ねた程度ではまるで揺るぎそうになかった。しかし凛としても譲れない。しかし彼女が何か言い返そうとしたその時、更に士郎を後押しする合いの手が入った。
「と、遠坂さん。僕も…衛宮さんとは戦いたくないです」
「ば、ばかっ、あんたまで何言ってるのよ!」
凛にとって思いもしない――とまではいかないが、シンジの一種の裏切り的発言は、彼女に少なくないショックを与えた。
「だって、出会ったばっかりとは言っても、衛宮さんと僕はもう知り合いなんですよ?そんな人と戦うなんて…僕には、できません」
そんなことは凛も百も承知。だからその思いを断ち切るために、こうして自分から切り出したのだ。だというのに、身内側からそう言われてしまっては、彼女の立つ瀬がないではないか。
「な、何よ、二人して…セイバー、あなたからも何か言って……セイバー?」
思わぬ伏兵のせいもあって押し負けそうになった凛は、すかさずセイバーに助けを求めた。だが、その時ようやくセイバーの目が険しさを増していることに気づいた。どこかを睨みつけるが如く鋭い目つきだ。しかも、その視線の先は遠くではなく、近い。
「どうしたんだ、セイバー?」
「……、ッ!!」
凛に遅れて彼女の様子に気づいた士郎が口を開いた。それとほぼ時を同じくして、セイバーの腕が霞んだ。体の側面に垂らした状態から、士郎の顔面の前に。強く握り締められたこぶしに掴み取られていたのは、一本の細い金属棒――いや、矢であった。
「攻撃!敵っ?!」
面食らった様子の男達とは異なり、女性陣の対応は早かった。セイバーは雨合羽姿から一瞬で鎧姿に。凛は指の間に宝石をセットして矢の飛来先を睨みつけた。流石にそこまで来ると、士郎とシンジも事態の深刻さを理解できた。
「攻撃されたのか?!」
「はい。この攻撃から察するに、アーチャーと見て間違いないでしょう」
セイバーは士郎を庇うように一歩前に出て、見えない武器を構えた。ちなみに凛達もちゃっかりセイバーの後ろに回っている。狙撃を受けて、最も対応できる可能性が高いのがセイバーであるので、正しい選択である。
しかし、それはあくまで普通の射撃であった場合のみに限る話。次いで迫った二発目の矢は普通ではなかった。
矢の速度は先程とほぼ同じだ。故に、攻撃があると分かっている分だけ、今度は十分に余裕を持って弾き切るはずであった。だが、空振った。あるはずの手応えは手に伝えられず、彼女は思い切りスカをくってしまった。本来あるまじき失態はしかし、直線でしか奔らないはずの矢が突如として軌道を変えたことで引き起こされた。
「なに――ッ!?」
さしものセイバーといえど、己の頭を射抜かんと迫っていた矢が、瞬時に跳ね上がったことには驚きを隠せない。矢は速度を落とすことなく直角に昇り、更に二度直角に軌道を変え急降下した。辿り着く先は、セイバーのマスターたる衛宮士郎の脳天だ。
信じがたい攻撃。光明のない絶望的状況。だが、それでもまだ、「間に合う」。セイバーはそう思った。連射されても反応できるようにするために、先の振り下ろしは目一杯のそれではなかった。然るべき反動がないため切り返しは遅れてしまうが、それでも間に合うと彼女は考えた。――実際にはそう思いたかったというのが真実。こんな所で、彼女は負けるわけには、終わるわけにはいかないのだから。
刃は初動と重力に従い下に落ちゆく最中だ。それを無理やり横に流した。体のあちらこちらが軋んだが構ってはいられない。続けて、士郎に向き合うように反転しながら剣先を跳ね上げる。彼女の踏み込みは恐ろしく強力だ。足がアスファルトに易々とめり込む。しかし、地面を砕きつつ飛び上がり、必死に矢に剣を迫らせた。
―――足りなかった。ほんの少し、コンマ数秒程の僅かな時間が足りなかった。矢が曲がるときの驚きを感じた時間、それさえなければ或いは間に合ったかもしれない。だが、現実は冷徹で、残酷だ。
セイバーの最高潮に加速した意識は、時の流れを急激に緩やかにしてしまった。異常に引き伸ばされた一瞬の中、彼女は士郎の頭に矢が落ちていくのを、まざまざと見せ付けられてしまった。
「――――」
現実は、冷徹で残酷。士郎の頭には確かに死の鉄槌が下された。
だが、そこまでいってまだ、死神の出る幕ではない。彼の蝋燭の火はまだ消えない。運命はまだ彼を見捨ててはいなかったのだから。そう、この場面の解決法は単純なのだ。セイバーが間に合わないのなら、他の者がカバーしたら済む話なのだから。
士郎は動いていた。ただし、これは矢の速度に対して僅かに遅い。凛も動いていた。しかし、これも彼を助けるには至らない。ならば、残されたのは、士郎を助ける可能性を持った者は誰であるのか。
碇シンジ。論じるまでもなく、彼しかいなかった。
彼の能力は唯一つだ。絶対不壊の不可侵世界、名を絶対恐怖領域――――ATフィールドといった。
音は軽い。くしゃりと紙がひしゃげるが如き音がして、縮んだ矢が士郎の頭皮から数ミリ上で跳ね返った。
「ま…間に合った…?」
思わず本人が疑問系で尋ねてしまうほど、絶妙で微妙なタイミングであった。しかし、セイバーはすぐに己のマスターの無事を確かめ、ホッと溜息を吐いた。
「貴方、でしたか。助かりました、シンジ」
だがそれが急場凌ぎに過ぎないことは、その場の誰もが分かっていた。こっちから相手は見えないが、相手は確実にこちらに当てようとしてくる。ならば、少なくともこれ以上この場にいるのは避けねばならない。
「シロウ、ここは危険です。一旦引きましょう」
「ああ、そうしよう。遠坂もシンジ君もいいか!?」
二人が頷くのを見て、セイバーを殿に一時撤退が始まった。とりあえずは曲がり角目掛けて彼らは走る。攻撃は特殊なれど射撃は射撃。まずは身を隠すのが先決だった。
***
「……ありきたりだが的確な判断だ」
遠く離れた場所にいる射手は、弓を下ろし呟いた。番えた矢は弦から外しはしないものの、これ以上士郎達に向け放つ気はなかった。無駄矢を射って、場所を特定されるのだけは避けなければならない。何より、無駄矢を射るという行為は彼のプライドが許さなかった。
そして、彼の後ろに控えていたもう一人が、彼に声を掛けてきた。
「どうするつもり?」
「これ以上出番はないだろう。なに、手伝えというならいつでもやるが、どうなるかはあいつら次第だ」
あいつら、とは士郎達のことではない。射手の心に浮かんでいるのは、全く別の二人組だ。それは、彼が信頼する強さを持った二人だ。そして彼は、やはり矢から手を離すことなく、虚空を見上げて呟いた。
「俺達の評価――お前達にかかっているんだ。頼んだぞ――『
***
思いの外追撃がなかったため、すんなりと物陰に隠れることに成功した士郎達は、それでも警戒を解かなかった。相手がどこから見ているか分からない以上、油断は禁物である。当の射手が既に撃つ気がないと、知れるはずもないのでこれは当然の行動だ。
「…それで、これからどうするんだ、セイバー」
「攻撃されたのです、こちらからもやり返すしかないでしょう。ただ…その、私には長距離攻撃はできません。このままでは直接出向いて叩く他ないということです。そちらはどうですか」
問われた凛は首を横に振った。
「わたしも無理ね。どれだけ離れているか分からないけど、見えない距離にいる相手に攻撃はできないわ。こいつもね」
最後はシンジを指しての一言だ。そもそも彼に攻撃手段があるか凛は知らないのだが、それは当然口にはしない。
「状況は良くないな…。それにしても、あんなのがサーヴァントの攻撃なのか?」
あんなのとは当然ながら先程の直角射撃を指している。常識的に考えて、矢による攻撃があのような軌跡を取ることなんて有り得ない。後ろにロケットがついていて、それで制御していたとしても不可能だ。あの速度で直角に曲がるというのは、どう考えても物理法則に反する。
しかし、それがサーヴァントによるものならばどうか?神秘の塊たる英霊ならば?
答えは――YES。有り得る、だ。
「…ええ、ないとは言い切れない。それどころか目の前で見せ付けられたのです。相手の射は曲がるということを前提に、立ち向かわなければならないでしょう」
「その通りです。ただし、貴方達の相手は最早彼ではない」
「!」
セイバーの声に同意を示したのは、曲がり角からやや離れた場所からの声であった。士郎達が振り返ると、そこには二人の少女と思しき姿があった。ぼんやりとした言い方なのは、一方が鎧に身を包んでおり、やや性別の判別がつき難かったことによる。また、その鎧を着込んだ相手が厳つい仮面をつけて顔を隠していたのも、判定の難易度を上げていた。辛うじて声から女性であろうと分かったのだ。
「自ら私達の敵と称しますか」
「如何にも」
鎧を着込んだ少女は、まるで杖でもついてるかのように、重ねた両手を胸の前辺りに浮かせている。そう、浮かせているのだ。手の支えになるべきものは何も見えない。パントマイムのように、彼女は両手を空中に置いていた。
「得物が見えないようですが」
「そちら同様、既に出ています。問題はありません」
重ねていた手が、少し下の位置で"何か"を掴み取った。尚何も見えないが、それでも士郎達は圧力を感じた。それが、伊達でも酔狂でも間違いでもなく、彼女は既に武器を持っている証拠であった。
「私と同じ――?まさか」
「呆ければ死にますよ」
ひゅ、と音が鳴り、本人の言葉を借りるならセイバー同様の『見えない得物』が、セイバーに突きつけられた。
「行きます。――マジシャン、『
一歩。見えない武器を斜め下に構え、踏み出した鎧の少女は、一歩で最高速に達した。
「はあっ!」
下段から放たれた攻撃を、セイバーは上段から振り下ろした見えない剣で防いだ、――ように見えた。
「な――!」
振り上げ攻撃を防いだかに見えたセイバーは、その攻撃によって浮かばされていた。セイバーと同程度の体格に見える少女のどこに、それだけの力が隠れていたのかと思わせるほど強力な打ち込みであった。
追い討ちはない。そんなことをしなくても十分だとばかりに、少女は距離をとって仁王立ちになり、セイバーが体勢を立て直すのを待っていた。手加減されたと感じたセイバーは一瞬で闘志を滾らせ、目つきを変えた。
「……」
「不満ですか。しかし、私達は本気の貴方を倒さなければなりません。今度からは大丈夫でしょう。では、付き合っていただきます」
その口上を皮切りに、再び打ち合いが始まった。今度はセイバーも、真正面から受けきって体勢を崩されるというへまはしない。元々、どれほどの長さの得物か知れないために、背後の士郎達を心配して受け止めた攻撃だ。士郎達との距離さえ開けばよけることも可能。それに、相手のパワーが予想以上であっても、それならそれで上手く受け流す技術を彼女は備えていた。
一合毎に、頼りない蛍光灯の明かりよりも強い火花が散る。そして耳を劈かんばかりの、大砲の発射時のような爆音が立て続けに鳴り響いた。およそ、その発生源の人物達からは考えられない壮絶な戦いだ。
「「はあっ!」」
――――奇妙なことに、二人の攻撃はよく似ていた。それどころか掛け声すらも重なる時があった。まるで鏡合わせのような打ち合い。たった今出会った敵同士の本気の戦いであるというのに、それはどこか最初から行動が決まっている殺陣めいたものに見えた。
しかし、幾ら奇妙であろうと、強烈な戦いであることに違いはない。本人達以外に手出しできるものはいなかった。だが、ここでただ単にぼうっと見ているわけにはいかない。鎧の少女が、マジシャンと呼んでいた敵がまだ残っているのだ。
「シンジ、衛宮くん――気を引き締めて」
「は、はいッ」
「ああ、分かってる」
マジシャンというのは、その名の通り魔術師なのだろう。士郎も凛も見たことがない魔術発動方であることも含め、なんら驚くことはなかった。世界は広く、彼らの見聞は恐ろしく狭いのだから、そういうやり方も存在するのだろうと納得がいこうというものだ。問題はもっと別のことである。
「――遠坂」
「ええ、分かってる。マジシャンなんてクラスはないわ」
イレギュラーなクラスという一言で片付けるわけにはいかなかった。魔術師のサーヴァントであるなら、キャスターという席が予め用意されている。なのに別の名前を使うということは、何らかの意味があるに違いない。名前とは、言霊の例を持ち出すでもなく、酷く重要なものである。つけ直すにしても、相応の理由が必要なのだ。
しかし、考える暇は士郎達に与えられなかった。
「来る!――Vier Stil Erschießung!」
凛が宝石を呪文と共に放つ。その破壊力がどれほどのものか知らずとも、恐らくそこらに立っている家は吹き飛ぶのではないかと、士郎やシンジは思った。激しく打ち合うセイバー達の横をすり抜け、マジシャン目掛けて宝石が迸る。しかし、そこで停止した。進行を止められた。
「何…!?」
マジシャンの魔術発動方は、やはり先程と同じく異様なものだった。クッキリと大きく、そして猫のように光る瞳の奥から魔法陣が飛び出してくるのだ。それに聞き覚えのない言語による呪文が合わさり、魔術を完成させていた。今し方放たれた凛の宝石も、その目の奥から飛び出した魔法陣により絡み取られ、魔力の全てを胡散させられて消滅していた。
「出鱈目な奴ね!」
「遠坂伏せろ!」
士郎の言葉は、宝石を止めた直後に発動した相手の攻撃を恐れてのものだった。しかし、凛は伏せない。真っ直ぐ敵を正面から見据える。その行動の正しさを証明するように、迫り来た光の棘のような攻撃は彼女の前で四散し消えた。彼女を守ったのは、金色に輝く八角形の壁だ。
「シンジ、あなたもう力加減はできるわね?」
「何とか…」
先程からそれは分かっていたことだ。シンジのATフィールド、初めての発動のときは魔力を殆ど奪われた。二度目も、余り加減をした吸い取り方とは言い辛い。だから、もっと力を抑えて発動させてみろと、凛は彼に言い続けていたのだ。そして、彼はその言葉通り、上手く調節してATフィールドの展開に成功していた。これなら、凛が魔術を用いた戦闘を行っても問題はない。
「そうか、シンジのあれがあれば…!」
「ええ、セイバーの横を抜けて向こうに行くことだって可能なはずよ」
如何にマジシャンの得体が知れなくても、防御を固め、複数人で取り囲むなら勝機はある。丁度都合よく、竹箒が捨てられていたのも助かった。士郎が強化を施せば、それは鉄製の棒と変わりなくなるからだ。
魔術の発動を始めた士郎を見やり、鎧の少女は舌打ちを一つもらす。無論、セイバーと打ち合う手は止まってはいない。
「…このままだと、ジリ貧でこちらが不利、ですか」
「愚問です。承知で挑んできたのでしょう?――ッ!」
仮面に隠された顔は見えない。しかし、セイバーには相手が嗤った様子が思い浮かんだ。事実、彼女は奥の手を隠していた。
「ええ全くです。まことにもってその通り。――マジシャン、『
またもやマジシャンの目から魔法陣が飛び出し、『強化呪文』といったとき同様に、それが鎧の少女に覆いかぶさった。円形の魔方陣をくぐった彼女には何ら変化は見られない。しかし、何かが変わったのは確実であった。
「ハッタリは効きませんよ」
「ええ――故に、ハッタリでは…ありません!」
カツン、と音がして少女の姿が掻き消えた。
「くっ!」
セイバーの反射神経をもってしても、彼女を捕らえることはできなくなっていた。それが『加速呪文』の効果だ。名前通り行動速度を急上昇させる魔術は、少女にセイバー以上の速度を与えていた。そして、恐るべき速度で駆ける少女の行く先は、セイバーではなく、
「シンジ!防御を固め――!」
「がっ!」
セイバーの指示は的確だったが、少女の速度はそれ以上だった。コマ落ちでもあったように、突然目の前に現れた少女に、シンジは"はね飛ばされた"。ゆうに数秒滞空し、強かに地面に叩きつけられた。
「がはっ…い…っ……」
腕は妙な方向に折れ曲がり、口元からは鮮血が溢れた。目は虚ろで、未だに何が起こったか判断し切れていない様子だった。
「――まるで相手になりません。貴方こそ、最強という看板はハッタリではないのですか」
背中を見せた状態からゆっくりと振り返り、少女がセイバーに言った。少女の速度が先程のままならば、セイバーが幾ら走っても先に士郎や凛は切り倒されるだろう。明らかな、チェックメイトだった。
「これで証明されました、やはり私達が最強です。英霊など、まるで大したことは無いとよく分かりました」
妙な言葉だった。それではまるで、自分達が英霊ではないといっているのと同じである。しかし、それならば先程の『マジシャン』という名前にも説明がつく。
「まさか…貴方、いえ貴方達はサーヴァントじゃあ…ない?」
ふん、と少女は鼻を鳴らした。
「今頃気づいたのですか。まあいいでしょう、それならそれで勘違いのまま一息に――なっ!」
先程の爆音と、比べ物にならない轟音が響き渡った。セイバーのパワーでも揺らがなかった少女が、初めて後退させられた。彼女に叩きつけられたのは、形容するのも馬鹿げた、およそ武器とは思えない不恰好な巨石の斧。
「じゃあ、今度は私と遊びましょう?お姉さん」
巨岩をいとも容易く振り回す巨人。その横で、この場に似つかわしくない幼い笑みが零れていた。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、そしてバーサーカー、参戦――――。