紅茶のお代わり/香り漂う中、再開。

「では、先の言葉の意味を教えてくれるか。鏡の貴婦人という魔物と、僕が出会った魔物は、全く別物だ。なのに、どうして関係があるといえるんだ?」
「確かに、外見だけならば、両者には共通点が全く言っていい程ありませんわ。ですが、はっきりしていることが一つ。坊ちゃんがであった魔物は、かなり前に 駆逐されていますの」
「たまたま同じ姿をしていただけじゃないのか?」
「その可能性は皆無ですの。人の姿がそれぞれ異なるように――――より適切には、人の心がそれぞれ異なるように。魔物の形はどれ一つとして同じ物はありま せんの。だから、ありえません の」
「ではなぜ、その同じ魔物が現れたんだ?」
「先に言いましたように、鏡の貴婦人の特性ですの」

 言って、ナピィカはあるものを指さした。部屋にあった小さな鏡だ。
「鏡の特徴はご存じでしょう。その前にあるものを、寸分違わず映し返す。鏡の貴婦人の能力は、その発展。あれの目が捉えたもののコピーを生み出しますの」
 眉を顰めるクロノ。「だったら、相手の戦力は無尽蔵じゃないか。どうやって倒すと言うんだ」

 その問いに、果たしてナピィカは答えなかった。
「……ナピィカさん?」
 クロノが問いかけるが、返事をしない。まるで急に物音を聞きつけた猫がそうするように、彼女は顔を素早く動かし、遙か彼方を見つめていた。
「どうかしたのか?」
「――――お坊ちゃん、一つ質問ですの。この町に、貴方方以外の魔法使いがいたりしませんの?」
「ああ、それなら」
 一人いる、クロノはそう答えかけ、振り直っていた鋭い目に気圧された。

「いますのね」
「……一人いるにはいるが、それがどうかしたか」
「ええ、どうかしておりましたわ。うっかりしてましたわ。お坊ちゃん達に、さっさと確認して、そっちも呼んでおくべきでしたの」
 落ち着き払った様子は、薄れていた。彼女はすっと立ち上がると、窓に向かって歩き出していた。
「おい」
 まさか、と。彼を含め、ナピィカを覗く全員が抱いた嫌な予感。ほぼ時を同じくして、それを裏付ける警報が部屋の中に木霊した。そして、窓を開放するナ ピィカの、だめ押しの言葉。

「新たな魔物ですわ。この町で最大の魔力反応に、一直線で向かっていますの」

 

 

 己の相棒が、"EMERGENCY"を告げるのは、最近これで二度目だ。最近少し多いな。
 まだまだ見習い、兼、管理局の嘱託魔導師である高町なのはは、どこか冷静にそう考えていた。ホンの少し前に、ヴォルケンリッターという魔導師に襲われて いた のが役に立った、とでもいうように。

(あ、魔導師じゃなくて、騎士だっけ)
 詮無きことを考えている内にも体は動く。すっと息を吸い、窓から飛び出すと、丁度良い足場まで飛んでいく。奇しくもそこは、ヴォルケンリッターの一人を 迎え撃った場所であった。そして、手痛い敗北を喫した場所。
 愛しい友人であり、大事な仲間であるフェイト。彼女が来るのが間に合わなかったら。そう思うと、体がぶるりと震えた。

「でも、今度はきっと大丈夫……だよね、レイジングハート」
"Yes, my master"
 赤いビー玉のような待機状態を取る、なのはのデバイス。その頼れる相棒が、きらりと光り返事をする。それだけで、なのはは勇気が湧いてくるように感じ た。

「レイジングハート、セットアップ!」
"Set up"
 デバイスの待機状態が解かれ、瞬く間に金と白に輝く杖が姿を現す。レイジングハート・エクセリオン。新たに、カートリッジシステムを搭載し、 大幅な強化を果たした、なのは専用のデバイスである。

「どこから?」
"From south. Moving speed is very high. 200,150,100……Arrive"
「うそっ、速すぎぃ!?」
 予想外の速度に驚きつつも、彼女は振り向き、
「っ……!」
 覚悟もなく振り向いたことを後悔した。

「………………」
 こぉぉおおお、と静かに息を吐くのは、軍人風の短髪の男だった。より、正確を期するなら、まともであるのは、唯一顔だけだったと言える。
 なぜなら首から下の体に は、無数の小さな口が蠢き、下半身は馬の体。足は六本。彼の神話に謳われる最高神の駆る愛馬と同等であり、脈動する筋肉も圧倒されるほどに盛り上がってい る。
 だが、その姿は神聖なものとは程遠い。その体に括り付けられていたものが――――

「……レイ、ジングハート」
"Yes"
「あれは、なに?」
 相手が襲ってこないのを良いことに、彼女はぼうとした心地で、愛機に問いかけた。答えを知っておりながら、聞いてしまった。

"…………"
 機械には相応しくない沈黙。それこそ、レイジングハートが、知能を持つデバイスと呼ばれる所以であっただろう。彼女の優しさであったのかも知れない。だ が、彼女は答えた。機械らしく従順に、機械だからこそ正確に答えた。
"Dead"
 それは、人の死体ですと。

 ぷつん。
「あ、あああああ!」
 レイジングハートの返答を聞いた瞬間、なのはの頭は沸騰した。近代化した社会が、平和慣れした日本が、ひた隠しにしていた死に触れてしまう。余りにも、 現実離れした体験だった。まだ、年 齢一桁に過ぎない少女にとって、"死"とは全く理解できない概念であり、恐怖の発露である。
 そして、理解できない恐怖に触れた時、人が取る行動は制限される。彼女が取ったのは、その中でも分かりやすく、直接的なものであった。

 咄嗟に相手と同じ高さまで飛び、彼女が取った行動――――それは即ち、恐怖を消し飛ばす攻撃だった。

「ディ、ディバイィィィイイイイイン! バスタァァァァアアアアアアアア!」
 非殺傷設定にしたかも分からない。とにかくがむしゃらであり、即座の発射だけを目指し、光の砲撃「ディバイン・バスター」を放つ。
 相手の姿を、相手がぶら下げているものを、これ以上見たくない。その思いが、彼女を焦らせ、そして目をすら閉じさせた。

"Master!"
「……え?」
 しかし彼女は忘れていた。そもそも、敵がどれほどの速度で、こちらに迫っていたか。圧倒の速さを持つ相手である。如何に中距離、如何に最速での砲撃であ ろうと、焦りと恐怖に駆られ、狙いも構成も綻びがありすぎる攻撃では、躱されるのが必定であった。いや、躱されるだけならまだ良い。

「かはぁぁぁあああ…………」
「ひっ!」
 生臭い息。顔を引こうとして、頭をがしりと掴まれた。目と鼻の先に、赤、黒、銀が入り交じる、混沌の瞳があった。攻撃を躱した馬身の魔物は、なのはの至 近距離まで一足で迫っていたのだ。

「い、や……!」
 がちがちと小刻みにかち合う、無数の口。そこから吐き出される息だけで、バリアジャケットが溶け、体が腐っていくようにすら思えた。こんなに気分が悪く なるのは、生まれて初めてだった。だが、頭をしっかと握られている以上、逃げようがない。
 更に、追い打ちを掛けるように、男に変化が起こった。まだ、人らしい顔をしている男の口の周りに放射状に線が入ったのだ。そして、ヒトデの口が裂け広 がった。

 人の上半身を飲み込むのに、十分な口径。その口中には、数数え切れない牙と、深淵の穴が見えた。なのははそれを見て死を覚悟し――――だが同時 に、死を拒絶した。

「――――――――ッ! ジャケットパージッ!!」
 ジャケットパージ。文字通り、身に纏うバリアジャケットを分離し、炸裂させる技だ。相手との距離が近ければ近いほど効力を発揮し、しかし、自らの 防御力も低下させてしまう諸刃の剣。今回は、それが功を奏した。

「ぎいいぃぃぃいいいい!」
 奇声を上げ、弾け飛ぶ男。爆発の煙ではっきりとは確認できなかったが、なのはの頭を掴んでいた側=左半身が、焼け焦げているようだった。
「はっ……はっ……」
 爆煙に隠れる敵。少しだけ距離ができたとはいえ、一度芽生えた恐怖は、中々去らない。心臓の鼓動は酷く速い。緊張の余り、レイジングハートを取りこぼし そうになる。それでも、彼女は唇を噛み締め、前を見据え、小さな手を翳した。
「ディバイン・シューター!」
 馬身の男が煙から抜け出した瞬間だった。なのはは光の球を放った。数は四。縦横無尽の三次元疾駆で、敵に迫る。
 その内、焦りからコントロール不十分になった一発が、先行して相手を襲った。

「邪ァッ!」
 その弾を、既に元の顔に戻っていた男は、左手でぴしゃりと打ち払った。魔力は、それだけで霧散した。今度のディバイン・シューターは、コントロール不全 だったとはいえ、 構成は十分に整っていた。にも関わらず、彼の一払いは、それを上回ったのだ。

 ただし、無傷でとはいかない。男の左手も巻き添えになり、消え失せていた。

「……ぐるぅ?」
 手首から先を無くし、小さな噴水よろしく血を吹く左手を見て、男は首を傾げた。どうしてそうなったか理解できない、或いは、怪我というものを理解できて いないかのようだった。

 

「で、でも、効いてる……! だったら!」
 意気込むなのは。残弾は三。新しく作り出すことも考えたが、余り増やしすぎても制御が覚束ない。だったら、今あるものを、可能な限り素早く当てる。彼女 は結論と共に、 シューターの速度を三倍に引き上げた。

 一つは、男の右側に。右手を左手同様に失えば、防御もできないと考えた。
 一つは、遅れて頭に。
 最後の一つは、人間なら心臓のあるだろう左胸に向けた。

 人と変わらない形をしたものに向けるには、余りに酷な攻撃だ。だが、少女の生存本能は、常識から来る忌避感を軽くねじ伏せた。

「これでっ!」
 右手を振り、全弾の速度を更に引き上げる。今や、残像をほとんど光の筋と見まごうほどだった。
「終わりっ!」
 彼女の勝利は、ここに決した――――筈だった。
「?!」

 ぱから、と。響いた足音は四重。四度の移動音が、一度に聞こえた。

 初弾。右腕よりも速く、男は宙で跳ねた。迫り来ていた弾を、馬脚がただの踏み台と変えた。
 次弾。男は、下半身の馬体に括り付けた死体から、頭をちぎり取り、投げた。人間では、まず投げ得ない剛速球。シューターは、それで相殺された。同時に、 脳漿やら頭蓋やらが撒き散らされ、簡易な煙幕となり男の姿を覆い隠した。
 終弾。目標を見失った光の弾は、盛大に空振る。その真横を、男は我が物顔で駆け抜けた。

 全てを目に捉えられたのが嘘のような早業。なのはは、「うそ」と呟くことも儘ならず、胴体を刺し貫かんとする男の右腕を、ただ見送った。レイジン グハートが咄嗟に発動したプロテクションすら、濡れたティッシュのように破られた。

 ……あ。だめ。わたし、ここで死んじゃう。
 ……死んじゃう? やだ。やだよ。どうして? どうしてわたし――――お父さん、お母さん、ユーノ君、クロノ君……フェイトちゃん。

 

 誰か、助けて。

 

 胸に突き刺さる、鋭い痛みはなかった。
 代わりに、鈍い痛みが左腕を襲った。相手の右腕が体に到達するまで一ミリを切った瞬間に、なのはは横合いから強く掻っ攫われたのだ。
「ぶっ?!」
 バリアジャケット越しの衝撃にも関わらず、体の芯まで響いた。風景も変わるなんてレベルではない。全てぐちゃぐちゃに混ざり合い、体の中も、頭の中も ぐっちゃとシェイクされた。
「お……う、え」
 どこかのビルの屋上に着いたと同時に、吐き気を催した。でも耐えた。

 だってなのはは、はなもはじらうおんなのこ。へどをはくまほうしょうじょなんていないのだ。 

 ちょっとだけバカになった脳内ボイスは無視し、必死になって嘔吐きを耐える。そんな彼女の耳に届いたのは、聞き慣れた声の、聞き慣れぬ口調 だった。
「よしよし、及第点を上げますわ。初めてにしては、上出来ですの」
「その声…………フェイト、ちゃん?」
 一瞬だけ見えた横顔と、豊かな金髪は、自分の親友のそれだった。だが、服装といい、口調といい、どうにも彼女だと断言できない。だから疑問系で尋ね、相 手もNOと首を振った。

「あたくしはナピィカ。自己紹介は追々しますわ。それよりも、あれを片してしまいますの」
 にいと、口の端が持ち上がるのを見て、なのははやっと、違うと断じた。フェイトではない。彼女は、こんな顔をするような子ではない。
 そしてナピィカは、なのはがそう思っているなど露も知らず、攻撃準備を整えつつあった。

「ちょぉーっとだけ、素早いことが取り柄の中級魔物。ケンタウロスとスレイプニルの合いの子擬きが、子供虐めて悦入ってんじゃねえですの」
"Plasma claw"
 両手の指をピンと張って空に向ける。その先から、文字通りプラズマの爪が伸びた。途端に酸素が反応し、ツンと鼻をつくオゾン臭が漂う。
「お坊ちゃま達が来る前に、終わらせますの」
「あの! ナピィカちゃ――――」
 なのはの呼びかけよりも先に、ナピィカは飛び出した。
 しかも、空中を飛ぶのではなく、ビルの屋上や壁を蹴っての連続跳躍だ。それでいながら彼女は、彼女の言うところの合いの子魔物より圧倒的に速い。なのは が見たのが、順々に弾 けていく建物の壁面だけだったという事実が、それを端的に示している。

「壁が壊れて……あ……修理代」
 馬鹿なことと分かっていても、壊れていく建物を見ていたなのはは、つい呟いてしまった。ただ、すぐに結界が展開済みだと気づき、ほっと胸をなで下ろす。

 そして、彼女がほっとしている間に、ナピィカは魔物の下をくぐり抜け、六本足全てを刈り取っていた。

「――――――――!」
 悲鳴にならない悲鳴を上げ、魔物は空中から脱落を始める。その隙を逃すナピィカではない。一際高く跳び上がり、最頂点で一時停止し、体制を整える。
「シリンダーを一個弾きなさいの! 電磁反発出力最大!」
"Maximum repulsion"
 刹那、ぴたりと止まった状態から、まるで上空から巨人に叩き付けられたかの超急加速。大磁力のぶつかり合いが生んだ轟音と共に、ナピィカは一条の流星と 化した。右足をつんと張り、落ち行く魔物に刹那の時で追いすがる。

「おりゃぁぁぁあああ! ――――スーパーイナヅマキィィィィイイイイック!」

 か、ぱぁんという小気味の良い音と共に、なのはの恐怖の体現であった魔物は、真二つに割れた。後、爆発四散。

 

「……ト、トップをねらえるのっ!」
 なぜだかそう言わなければならない気がした、なのはであった。 

 

「えーっと」
 戦闘を終え、ふよふよと自分の所に戻ってきたナピィカに、なのははどう話しかけたものか迷っていた。
 もっとも実際には、ふよふよなどという優しい音ではなく、大型の芝刈り機でもかけているのかという騒音を立てながら飛ぶものだから、それで気後れした感 もある。
(スカートがギザギザに広がって、その下からなにか出てる? ……のかな。わたし達の飛行魔法と随分違うみたい)
 どちらかというと、現代技術の延直線上にあるような技術だ。理系科目に強い彼女は、ナピィカの飛行方法を見て、そう看破した。
 ただ、飛行方法に当ては付いても、彼女の正体には、全く当てが付かなかった。

「ふむ」
 また聞こえた声は、フェイトそっくり。その視線は、なのはに向いてはいない。ナピィカは銅に輝く真球を指先で弄び、難しい顔をするだけだった。
「どうかしたんですか?」
「いえ。二つに裂く時に、ちょっとコアを外したので、途中で掴んで持ってきましたの。それで握ってみたのですが少しばかり、強度が高いなと……」
 そこで、はたと気付いたように、ナピィカは強引に話を打ち切った。
「まあ、別に貴女に関係のある話ではありませんわ」
 親指の爪に乗せて、球を軽く弾く。すぐに落ちてきたそれを、ナピィカは人差し指と中指の先で挟み、大した力を入れた風もなく、粉々に砕いた。

「え? ええ~?!」
「なんですの」
「きょ、強度が高いって言ったのに、今!」
 簡単に壊しているじゃんと、軽く非難の色を込めて叫ぶなのはに、ナピィカはしれっと返した。
「ちょっと、とも言いましたの」
「で、でもでも! そんなに簡単に壊せそうな物じゃなかったのに!」
「全く、うるさいですわね。貴……」
 ここに来て初めてなのはの顔を見たナピィカが、がちりと固まった。

「……あ」
「あ?」
「悪魔ー!」
 脱兎の如く逃げ出す。なのはは、暫し呆然として、飛び去るナピィカを見ていたが、はっと我に返り叫んだ。

「なのはは、悪魔じゃないもん!」

 

 その後始まった空中追いかけっこだが、これは思いの外早く終了した。
 ナピィカの空中移動速度は、大したことが無く、なのはでも容易に追いつけたのだ。壁などがないと、随分彼女の速度は落ちるらしかった。
 なにより、反対側からやってきたクロノやフェイトに、ナピィカの捕獲を依頼したのが、鬼ごっこの終結を早めた。

「さあ、人のことを悪魔呼ばわりした理由を聞かせて貰うよっ!」
 意気込んで、ナピィカと相対したなのはだったが、まず聞こえたのは、彼女の声ではなかった。聞こえたのは、彼女のデバイスとおぼしき、機械音声である。

"Lord. She isn't our commander. First, look is younger than her"
「……言われてみれば確かに。ふ、ふ、ふ。あたくしとしたことが、ちょっとばかり取り乱してしまいましたの」
「ちょっとって」
「ちょっとと言ったら、ちょっとですの」
「…………」
「なんですの」
 えー、そりゃねーだろ的なジト目を送ると、倍にキツイ視線が返った。
「ちょっとですの」
「……じゃあ、それでいいの」

 納得いかな気にぶー垂れたところ、ぱんぱんと、手を打つ音がした。クロノだ。
「互いの誤解が解けたところで――――ナピィカさん」
「はぁい、なんですのお坊ちゃん」
「ちょっとこちらへ」

 誤解解けてないよ! ていうか、お坊ちゃんって、クロノ君のことだったんだ、などと、なのはが言っている間にも、ナピィカはクロノに無造作に近づ いていった。純白の装備も解き、漆黒のシスター服へと チェンジしつつだ。

「来ましたの」
「ん。少し、顔を近付けてくれるか」
「やだ。公衆の面前でキスでもする気ですの?」
 わざとらしく、いやいやと首を振りながら、それでも彼女はクロノに顔を近付けた。目を閉じ、つんと唇を窄めるサービス付きだ。

 クロノは、溜息を漏らしつつも、その顔に手を伸ばす。
 え、まさか。彼の行動をハラハラして見つめるなのはとフェイト。だが、彼の手は、ある独特の体勢を取っていた。
 直後。
 ――――ばちん。ナピィカの額と、クロノの指が奏でた、何とも痛そうなハーモニーが響く。俗に言う、デコピンだった。ナピィカの顔が跳ね上がった。

「あいたー! ななな、なにしますの! なにしやがりますの、このお坊ちゃんは!」
「なにをするんだは、こっちの台詞だ。聴取中にさっさと飛び出す容疑者がいるか」
 があっ!と吠えるナピィカ。「容疑者?! あたくしがなにをしたと言いますの!」
「色々と。言ってあげてもいいが?」
「……いやいや、まあまあ、それはそうとして」
 ひょいひょいと、目に見えない箱をライトトゥーレフト。
「でも、幾ら何でも、真っ先に暴力を振るうなんていけませんの! お坊ちゃまは、女性の扱いが全然分かっておりませんわ!」
「そうか、わるかった」
「凄い棒読み!」
 ショックを受けたと示すように、天を仰ぎ、腕で目を塞ぎ、近くの壁にしなだれかかるナピィカ。壁に、のを書きながら、ぶつぶつと呟く。

「お坊ちゃまが、お坊ちゃまが、不良になっちゃいましたの。いと、悲し。姉、悲し」
「誰が姉だ!」
「お坊ちゃまの前に、生まれるはずだった姉ですわ」
「勝手な設定を作るな!」

 頭が痛くなってきたクロノは、それ以上なにか言われる前に、転移魔法を発動させた。
「行き先は、さっきの部屋だ。もう逃げ出さないでくれよ」
「ふふん。状況次第ですの」
 一瞬後、苦虫を噛み潰したような顔のクロノも、苦笑気味のなのはやフェイトも、えばった感のナピィカも、全員その場から姿を消した。

 無論、結界によって作られた世界は、術者がいなくなったことで崩壊を始める。痛々しい傷痕の刻まれた建物は、次々に意味のない情報へと変わり、き らきらと消えていく。

 だが、誰もいないはずの世界には、未だ一つの人影が残っていた。
 実体ではない。ナピィカによって砕かれた、ビルの窓ガラスに映る虚像である。本来なら、反射の元もあるはずだが、そちらはどこにも見えない。
 それでも、相変わらず像は結ばれ続け、その口で声な き言葉を紡いでいた。
 口の動きを追うものがいれば、それがなんと言っているか分かっただろう。

 そう、『――――紅頭巾』と。

 やがて、窓も、ビルも、町も、実を失い虚に帰った。

 

 フェイトとナピィカ。横に並ぶと、服装や目の色以外では、全く区別が付かなかった。
「フェイトちゃん、この子は誰なの?」
「わたし達も、今それを聞いていたんだ。さっきなのはが戦っていた相手のこととかも」
 ね?とナピィカに話を振るフェイト。ええ、まあと投げやりな返答があった。
「あー。でもなんだか話す気がなくなっちゃいましたの。お坊ちゃんに傷つけられた額のせいで」
「おい」
「と言う冗談は置いておきますわ」

 こほんと咳払い。
「そちらの子には、改めて初めましてを。あたくしは、ナピィカ。ナピィカ・カムトゥユン。そしてこの子は、あたくしの相棒であるリンカー、イミーヌ。詳し い話は、後でお坊ちゃまやフェイトから伺いなさいの」
 ナピィカの隣に突然現れ、恭しく一礼する執事服の女性に、なのはは驚きを隠せない。だが、前もって「後で聞け」と言われたので、素直に会釈を返すだけに 徹した。

「あら。ところでエイミィは」
「彼女なら、また今の出撃で仕事ができたからな」
「お坊ちゃんはいいですの?」
「君から話を聞くのが仕事だ」
 ふうんと、不敵に笑むナピィカ。
「じゃあ、またまたお話タイムですの。ええと、お坊ちゃん達にはどこまで話したでしょうの。確か、」

 考え込むナピィカに、しかしなのはがストップをかけた。
「あ、ナピィカちゃん、ちょっと待って」
「む。なんですの。ええと……そういえば、まだ名前を伺っておりませんでしたの」
「そうなの! あのね、わたしの名前は、なのは。高町なのは。よろしくね!」
 両手を取って、ぶんぶんと上下に振られると、ナピィカは、珍しくたじろいだ。
「そ、そう。よろしくですの。なのは。ですが一つだけお願いが」
「なんですか?」
「ちゃん付けはやめて欲しいですの。あたくしは、そんな歳ではありませんの」
「え?」

 年齢暴露/吃驚/繰り返しなので省略。

「うう。同い年だと思ったのに……ごめんなさい」
「気にしてはおりませんわ。いつものことですの」
 励ますように、ナピィカはなのはの肩を軽く二度叩く。
「あたくしも、貴女のことを勘違いしたのですから、お互い様でいいですの」
「そ、そうかな? ……あ。そうだ!」
「まだなにか?」
 お坊ちゃまの視線が厳しいので、そろそろ先に進みたいと言外に示すナピィカ。しかし、全く伝わらなかったようで、なのはは、ずいと顔を彼女に寄せて言っ た。
「なのはと間違えたのって、どんな人ですか」

 ひくり。ナピィカの表情は、今度こそ完全に引き攣った。
「あ、ああ~、そうですわね~」
「……まずいこと聞いちゃいましたか? そういえば、悪魔って言ってたし」
 わたしにだけどと、ジト目。「もしかして、すっごく悪い人なんですか」
「え、う、いえっ! そんなことはありませんのっ」
「じゃあどうして、ナピィカさんはそんなにビクビクしているんですか?」
「さ、さあ?」

 挙動不審な彼女の態度に、端から見ているクロノやフェイトの方が、何となく事情を悟った。
「君の方がなにかしたんだろう」
「!?」
「なんで分かったという顔で振り向かれてもな」
 クロノがフェイトに目をやると、彼女もこくりと頷いた。
「悪いことをしたと分かっている時、そんな反応になりますよね」
「フェ、フェイトまで。むむむ」
 悔しそうに俯いたナピィカだったが、腹を括ったか、イミーヌに一枚の写真の表示を命じた。
 そこに映るのは、大勢の男達と、ナピィカ。そして、なのはをそのまま成長させたような、美女の姿だった。

「わ。この人、ですよね?」
「ホントだ。なのはに似ている……」
「しかし、歳が違うだろう。こちらは、どうやらミドルティーンくらいのようだし」
 どうして見間違えると、僅かにクロノは呆れ気味で言う。
「ちょっと疲れて見間違えただけですわ! 誰だって、そういうことがあるでしょうの!」

 まあそう言うことにしておこうと、生暖かい雰囲気が流れる。
「でも、なにしたんですか、ナピィカさん。なのはが言うのもあれですが、そんな悪魔って言われるような感じには見えないんですけど」
 はっ、と。鼻で笑うナピィカ。
「バカ言うんじゃねえですの。そいつは、わたし達の頂点に立つ女ですのよ。単独での戦闘力が、一個師団に匹敵する、通称人型決戦兵器」
 イミーヌが、ナピィカの言葉を継ぐ。
「『白雪姫』の月白白亜総隊長であらせられます」

 

 ***

 

 屈強の男達が、死屍累々と地面に伏せていた。
 戦争でもあったかの光景を、たったの一人が生み出したなど、一体誰が想像し得よう。

「誰もいないわね。最初から見ていても、嘘みたいだもの」
「レオナ博士。危ないですよ、まだ終わってませんから」
 撃墜した男達の中心にあり、『ニーラ』総隊長の月白白亜は、鋭い眼光を一切緩めていなかった。
 つい、と。そのバカでかい砲杖が動くと、丁度そこに一本の刃が当たる。
 いや違う。攻撃がそこから来ると先読みし、何気ない風を装って、その軌道に割り込ませたのだ。

「うっわ……これでも、当たってはくれませんか! 隊長ぉっ」
「最初に落とされたように振る舞っておいて、実際には隠れて奇襲。いいと思います。でも、ちょっと見え見えでした」
 手を返し、白亜の身長ほどもある砲杖がくるりと回る。刃を突き出し、鍔ぜり合っていた男は、それで簡単にバランスを崩した。言葉ほど容易なことではな い。相手とて、幾つもの戦をくぐり抜けてきた勇士が一人である。
 それが、こうも容易く手玉に取られるところに、白亜の技量の恐ろしさがあった。

「ぐ、お……! だっ、だが――――!」
 天地をひっくり返されながらも、男は太い笑みを浮かべた。これでいいと、言葉にしないまでも、その思いを込めて笑い、そして顔から地面に落とされ気を 失った。
 直後、彼の背後からと、白亜の背後から、同時に砲撃の光が走る。死角からの、タイミングを合わせた多重攻撃。男の奇襲すら、読まれるのを織り込み済みの デコイだったのだ。狙撃手二人は、この瞬間、初めての勝利を到来を予期した。

「とった――――!」
 人の腕は二本。更に、攻撃直後には幾ばくかの硬直が存在する。だから、彼らの確信は間違いではない。白亜は、ここで初めての敗北を喫するだろう。

 故に、彼らが過ったのは、砲杖の動きが、奇襲男をひっくり返しても止まっていなかったこと。それと、もう一つ。
<互いが互いの攻撃延直線上にいてどうするの?>
「!?」
 念話で指摘された、その点だった。

 着弾。突風が吹き荒れた。
<……確かに、挟撃としては拙かった。反省だな>
<いいだろ。倒せたなら>
 訓練とはいえ、実弾使用の実戦式。防御機構の相殺で、軽い脳しんとうを起こす程度の衝撃が、少女を襲っている。だから、多少の無駄口くらい許されるだろ うと、口笛を吹く狙撃手の片割れ。……だが、

「――――倒せたなら、ね」
「いっ」
 スコープを兼ねた、フルフェイスバイザー内で、少女の声が響いたことに恐怖した。
 しかもそれは念話ではなく、微かな肉声を拾って拡大再生したものであった。

「まさか……!」
「まさか? 戦闘中に思考停止していいなんて、いつ教えたっけ」

 煙が晴れる。右手で砲杖を前に突き出し、左腕は後ろに盾よろしく構えた白亜の姿があった。
 左下腕部の、肘から手の甲にかけて並ぶのは、三つのクォークスペクトルアナライザー。攻撃の強・弱力、電荷、及び重力を分析し、吸収、無力化する特別防 御機構だ。紅、緑、蒼の半球が、ぱしゃりぱしゃりとシャッターで閉じられていく。

「ま、前の攻撃は攻撃で相殺して、後ろからのは受け止めた……てのかよぉ」
「は、は……魔物と、どっちが悪魔だって話だぜ……」
 狙撃手達は、半分泣き笑いになり、自分達の隊長がチャージするのを見ていた。砲杖ではなく、指先に灯る小さな太陽を。

「それじゃあ、今日の訓練――――一千対一の実戦式訓練は、これにてお終いとします」

 

 白亜の攻撃により、新たな爆風が生まれ、少し離れていたレオナの白衣を揺らした。紫煙を燻らせるレオナは、なにもない虚空に視線を投げて、呟い た。

「……ナピィカ。貴女、しばらく戻らない方が良いかも。かなりご立腹みたいよ、この子」

 

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