「あのさー、先生」
 
 日が傾き、瞬きごとに赤さを増していくように感じる教室で、一人の少女が声を上げた。瑞々しい体に、制服が良く似合っている女の子だ。
 
 「何だ」
 
 つっけんどんな態度で答えているのは、キチリとスーツを着込んだ、少女の言葉を信じるなら彼女の教師である筈の男だ。だが、少女から話しかけられても、その手は忙しそうに取り込んでいる。待てど暮らせど、何がしかの作業から離れることはない。
 なので構わず少女は話を進めることにした。彼女とその教師の間ではそういう会話が、普段から繰り返されているゆえ、もはやお互いに気にすることではないのだ。
 
 「あのねー、マクドナルドってあるでしょー?あれさ、関東と関西じゃ略し方が違うらしいよー。マックとマクドみたいなー」
 「君が生まれる前から知ってるが、それがどうかしたのか」
 「あっれー?先生そんな歳だったっけー?」
 
 けらけらと黄色い声で笑う少女に、男は沈黙で返した。若く見えるが、意外に痛いところを突かれたのだろうか。都合の悪いことはぶすっとした顔で黙り込み、乗り切ろうとする。彼は、学校中に超有能な教師として知れ渡っているのだが、割とそういった子供っぽいところがあるということを彼女はよく知っていた。同時に彼のそういうところが好きだった。だが、幾ら好きでも違う話題に逸らされてしまうわけにはいかない。気になった疑問はなるべく早いうちに解消しなければ、気が済まないのだ。
 
 「いやいやー、そういうことじゃなくてさー」
 「何だ」
 
 そして、まるで初めに戻ったようなやり取りを経て――――
 
 「だからー、どうして関東と関西ではマクドナルドの略し方が違うかなのかなー?教えてよ先生」
 
 ――――ようやく少女は本題切り出したのだった。
 
 「略し方が違う理由、か。ふむ」
 「おー、やっぱ気になるよねー?」
 
 少女の問いかけに、今まで忙しそうに動かしていた腕を初めて止め、男は考え込む素振りを見せた。自分の疑問が彼を動かしたのが嬉しいのか、少女はまた破顔してけたけたと笑った。
 
 ガラスのように冷たい男の眼球が、きろりと少女に向いた。少女の笑いが、何かしら感に触ったわけではない。そんなことを気にする男でないことを、誰より少女は良く知っていた。そして、薄っすら赤い彼の唇が動くのを少女は見守った。
 
 「そうだな……知っているか、日本人は名詞を略すことが多い」
 「えー?あー…うん、そうだねー」
 
 何だか、自分が聞いたことと違うこと答えてる気がするなー、とは思ったが、少女は素直に頷いておいた。この教師が回りくどいのはいつものこと。これまた一々気にしていられない。きっと文系だからだろう、なんて勝手に考えてしまう。
 まあ、どうせ暇だから面白おかしい話なら、多少長くても問題はない。尤も彼の話が面白かったことは、これまで数えるほどしかないのだが。男の話は続いた。
 
 「そこらへんに溢れている言葉を聞いていれば、嫌でも分かるだろう。リモートコントロールはリモコンに、パーソナルコンピュータはパソコン、エアコンディショナーはエアコン。エトセトラエトセトラ。いくらでもあるな?」
 「あるねー」
 「日本人はそれだけじゃなくて、人を呼ぶときも名前ではなく苗字で呼ぶ」
 「?」
 
 彼との付き合いがそれなりに長い少女でも、流石にあまりの話のぶっ飛び具合についていけなくなったのを感じた。でも仕方ない、この男はいつもこうなのだ。きっとAB型だからに違いない。天才と何たらは紙一重。付いていけなくて当然なのだと自分を納得させて、質問に乗り出した。
 
 「はい、先生の言いたいことが分かりませんー」
 「話は最後まで聞くんだな。聞いても分からなかったら、そのとき初めて質問を許可する。よく、私の説明は理解できないといわれるが、それは聞くほうに問題があると常々私は考えている」

 余りにもバッサリとした切り捨て具合に、ぐあ、とか効果音を付けつつ、少女は男の非難を始めた。それは軽い気持ちから出たもので本気ではないが、親しい仲だからこそ言っておくべきこともあるだろう。

 「うわー、この教師横暴ですよー」
 「静かに。どこまで話したか忘れてしまうだろう」
 
 自分の話が邪魔されるのを余り好まない教師が、そろそろ怒りそうなので少女は、うん、と頷いて黙ったが、話は中々再開されなかった。
 困ったことに、この男、思考回路は桁外れに早いのだが――或いは早すぎてだろうか、脳内メモリーがそれに追いついていかない時がままある。早い話、自分の話していたことすら、すぐに思考の彼方に追いやってしまうという訳だ。どれだけ膨大な思考を常に行っているかは知らないが、傍から見たらただの小ボケもいい所だ。尤も、本人は頑なにその評価を拒む。

 まあ、これまたいつも通りなので、とりあえず少女は彼に前の話題を思い出させてやることにした。今話している教師に比べ、余り出来のいい頭ではないことは自覚しているが、流石につい先の話なら覚えているのだ。
 
 「あのねー、日本人は人を呼ぶときも苗字だっていう話ー」
 「ああ、そうだったな。決して忘れてたわけじゃないぞ」

 いや忘れてただろとは言わない。礼がないことも特に指摘はしない。そんなものを入れるくらいなら、どうして話が飛んだのかの説明を早々に行ってもらいたいからだ。だから少女は、今度こそ口を挟まず聞き入ることにした。

 「名前を略す、苗字で呼ぶ、これらのことに共通していることは何か分かるか?」
 
 だから分からないって言ってるじゃん、といったらまた小言言われて話が止まりそうなので、とりあえず少女は沈黙を保った。何より、男教師は自分で聞いておきながら、人の意見を聞くつもりがあるようには見えなかったのだ。つまりはすぐに話が続くだろうということ。
 
 「それはな、"名前を呼んでいない"ということだ」
 
 そりゃあ、人を名前で呼ばないなら、それは苗字なり渾名なりだろう。少女は、余り長い気の持ち主ではない。我慢しようとは思っていたが、疼く疑問を抑えられず、また質問に乗り出した。
 反省したことも、少し経てば星辰の彼方へ。これまた少女のいつも通りといえば、そうであった。
 
 「エアコンとかも、確かに名前のようで名前じゃないからねー。だけどそれがどうしたの先生」
 「分からないか?よく考えてみろ、ここに日本人の特質が隠れているんだよ。日本人は名前で呼ぶのを敢えて避けている節がある。まるで名前というものを恐れているようだとは、或いは畏れているようだとは思わないか」
 「すみませんがー、最後の二つがどう違うのか分かりませんー」
 「漢字が違う、意味が違う」
 
 簡潔な説明をありがとう。というか、字面でしか判別がつかないような喋りはやめて頂きたいのだがどうだろう。きっと聞いてはくれないのだろうなと少女は思った。だってこの人はいつもそうで、いつも勝手だからだ。これでよく教師になれたものだと、やや失礼なことを考えたことがあるのは、一度や二度ではない。
 
 「恐らく、世界でもそうした日本人の特質は珍しいだろう。だが、珍しいからといって、少数派だからといって、それが間違っているわけではない」
 「はー。ではどういうことですー?」
 
 もはやどうでも良くなってきた気もするが、そんなことは悟らせないほど素晴らしい対応をしたはずだ。と少女は思った。勿論男は少女の内心には気づかず、自論を尚も展開し続けた。その勢いで世界を席巻してもらいたいものだと、少女は欠伸を噛み殺した。
 
 「名前を呼ぶというのは、本当は恐ろしいことなのだ。畏れるべきことなのだ。自分の存在を、その一欠けらでも他人に握られるなんて、ぞっとしない話だろう?しかも名前といえば、自分を構成する物の中で、かなり大きなウェイトを占めるものだ。ならばその恐怖は一押しだ」
 「そうですねー」
 「うん、ようやく君にも分かってきたようだな。そうだ、本来名前というものは、人が扱う領域を超えているものに違いない。それに気づく、敏感な種族は日本人だけ。奥ゆかしいのではなく、本能的に正しいことをしているのだ」
 
 昔の人は真名を知り、万物を支配していたという話をするつもりなのだろうか。その話は一応知っているが、見たこともないし、これからも見ることはないだろう眉唾だ。大体、そういう伝承は世界にも散らばってなかったか。

 いや何より、この男は一つ間違っている。
 
 「先生、私が聞いたのはマックとマクドの略し方の違いについてなのですけどー」
 「うん?そんなことは子供電話相談室にでも聞けばいいだろう」
 
 だから聞いたんだよ、教えないのかよ先生。もしかして始めから教える気が無いのだとしたら、がっかりな話だ。仕方がないので少女は並べ替えた机に突っ伏した。退屈度はマキシマム。十秒もあれば眠れる。
 
 ああ、やっぱりつまらない話だった。ぐう。
 


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