――鉄のエンジンが吐き出す排気音。ゴムの足が水を跳ね飛ばす。暗い夜を引き裂く光を連れて、一台の車が疾駆する。ぼんやりと浮かぶ運転席には、一人の女性。暗がりに隠れているが、助手席にも、後部座席にも、誰もいないらしい。
 
 雨の降りしきる中、しかも山に掛けられた道を、その車は一台のみで走り続けた。車が通る瞬間だけ辺りは少しだけ明るくなり、過ぎれば、また闇に飲まれていく。車が移動しているというより、山道が動いて、暗闇を車の光にぶつけているようだ、と運転席の女性は思った。
 
 ふと見やると、燃料がもう残り少ないとメーターが告げていた。もし、ここで止まったとしたら、給油するまで暗がりで待たなければならない――。女性はちょっとだけ恐怖を感じたが、そんな状況には陥らないことを自分でよく知っていた。
 
 後ホンの少し、数分も走らないところにガソリンスタンドがあるのだ。自分で入れねばならないが、その代わりに24時間いつでも開いている。よくこの道を通るので、女性は何度かそこで給油した経験があった。
 
 間もなく、女性はガソリンスタンドに到着した。スタンドの奥には電気が灯り、ちらちらと光量が変わっていた。恐らくは、夜番の店員がテレビでも見ているのだろう。差して気に留めることでもない。女性は構わず、普段通りに給油口を開けて、車から降りた。
 
 「……あら?」
 
 ガソリンのホースを掴もうとした時、ややこのガソリンスタンドに変化があることに気付いた。広告などが張られている掲示板に、新たなポスターが追加されていた。ただのビラではない。人の写真がその大半を占めるそれは、指名手配書と呼ばれているものだ。
 
 とはいえ、いくら指名手配所が追加されているとしても、それだけで一々驚いたりはしない。女性の驚きは、その写真の顔が、余りにも見知った人物だったからこそ生まれた。つい先ほども見た顔。――驚かないはずがない。
 
 
 なるべく早く、この場を立ち去ろうと思ってか、女性はやや焦った様子で給油口からガソリンを注ぎ始めた。しかし、一旦ガソリンを入れ始めると、手持ち無沙汰になる。仕方なしに、くるくる回るメーターを見ながら、「最近はずっと値段が上がりっぱなしね」、などと呟き、緊張を誤魔化そうとした。思ったように功を奏したかは、女性にしか分からない。
 
 ややあって。かちん、と給油が終了した。機械が吐き出した明細を持って、店員のいる場所に向かおうとし――――振り返ると、人がいたので止まった。雨足が強く、その人物の足音はそれに掻き消されたのだろう。心臓に悪い登場をした人物だが、服装から見るに、恐らくこのスタンドの者だろう。
 
 「――――……ぁ、あの、支払い…」
 
 驚きから回復し、目前の人物はスタンドの店員だろうとあたりをつけた女性は、明細書とお金を添えて、ゆっくりと差し出した。このスタンドでは、夜、一人で来ると、このようによく出てきてから対応してくれることもあるのだ。だから、女性もそう驚かなかった。
 
 女性が出したものを見下ろし、奪い取るように乱暴な手つきで、男性店員はそれを受け取った。
 
 「…お釣り、ありますね。暫く、お待ち下さい」
 
 おつりを取りに店員が戻っていくが、女性は少々怒りを覚えていた。セルフスタンドという性質上、サービスは期待していないが、今日は特に悪い。だが、男の目つきが妙にギラギラしていたのと、その体が少し震えていたのを思い出した。そして、同時に最近よく聞く話も頭に浮かんだ。
 
 
 ――この辺りで、猟奇的な殺人事件が、連続して起こっている――
 
 
 女性は軽く頭を振って、その話を思考の外に追いやった。深く考えてはいけないと思ったからだ。
 
 代わりに、それにしても遅いな、とあの店員のいるであろう場所に目を向ける。と、なにやら電話で話をしているようだった。例によって、雨で着信音は聞こえなかったが、どこからか掛かってきているのかもしれない。そう、好意的に解釈しようとした矢先、男性店員が電話をしながら、何度も自分を見ているように女性は感じた。
 
 背筋が寒い。どうせお釣りといっても小さい小銭だ。そんなものを待つより、早く出よう。そう考えて、女性は車に飛び込み、シートベルトを締めた。そして、エンジンをかけようとした瞬間、ばん!とフロントガラスに布が叩きつけられたのを見てしまった。
 
 「ひッ!」
 「…お客さん、お釣り…ありますよ。……窓も、少し拭きましょうね」
 
 いつの間にか、件の店員が車の横にいた。あまつさえ、窓を拭き始めた。店員の息は、目に見えて荒い。その目も、怖い。
 
 「け、結構です…そ、外、雨、降ってます、から…」
 「…まあ、もう少ししたら、止むかもしれませんから」
 
 嘘だ。こんな大降りから、突然止むわけがない。女性は、不審すぎる店員の態度に、一刻も早く立ち去ろうと決意した。
 
 「…それより、お釣りありますから、窓を開けてください、お客さん」
 「い、いりませんッ!」
 
 急ぎ、鍵を掛け、エンジンを掛けた。すると何を思ったか、男店員が慌てたようにドアに手を掛け、ガチャガチャと強引に開けようとし始めた。無論、鍵が掛かっているためあくはずが無いのだが、女性は気が気でない。スリップしそうなほど思い切り、アクセルを踏んで車をスタートさせた。
 
 男性店員は、車の急加速に弾かれ、地面に転がったが、こっちに向かって手を伸ばしているのを、女性はバックミラーで確認した。何か叫んでいるようだったが、女性の耳に届くことは、ついに無かった。
 
 「ち…違う…!危ないのは…!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 …………女性は、ガソリンスタンドから離れていっているのをミラーで確認し、ほう、と息を吐いた。そして、大した意味は無いが、バックミラーを再度見やり――――
 
 ――――見知らぬ顔が映っていることに、漸く気付いた。
 
 「えッ!?」
 「あそこで、降りておけばばよかったなッ!」
 
 男の声がして、凶器が振り下ろされる音がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 が。急ブレーキにより、もんどりうってシートから投げ出されたのは、男のほうだった。凶器――ナイフは女性に当たることなく、座席の背もたれの部分に突き刺さり、男の手を離れた。再びナイフが引き抜かれた時、所有者は始めの男性から女性に移っていた。
 
 「あなたこそ降りればよかったのにねェ」
 
 そして男は、女性の顔が先ほどガソリンスタンドに張られていた指名手配犯と同じだと、今初めて知った。


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