四日後にハロウィンを控え、町には一つの噂が流れた。

 ――――わたしのさー、友達の友達からの話なんだけどぉ。
 ――――え~? なになにぃ?
 ――――見たんだってー。
 ――――なにを?
 ――――吸血鬼。

 そして朝のニュースは、十三人目の過剰貧血者が出たと伝えていた。

 

「さて、君。例の噂を聞いたかね」
 ぱたりと本を閉じ、如何にも今思い出したから尋ねたという様子で、その少女は口を開いた。
 烏羽色の髪は、肩口まですとんと下り、やや冷涼過ぎる細やかな目元は、鋭く辺りを窺っている。特別に男も女も感じさせない中性的な顔つ きは、たおやかな体つきと口調と相まり、性別の判別を困らせる――――白い学ランを仄かに押し上げる胸部がなければ。そんな少女であった。

「噂だあ? 一口に噂っつってもな。沢山ありすぎて、わかんねえよ。会長」
「そうかね。わざわざ君に問うことだ。数が知れていると思うが」
「ああ?」

 少女に応えたのは、不良風の青年だ。短い金髪は無造作にかき回され、目は睨むような三白眼、背は百八十優に超える。筋骨隆々とは行かな いまでも、均整の取れた肉付きをしていた。
 本人の意図したところではないだろうが、しかし、高い身長といい体つきや視線は、思わず後ずさりそうな迫力を備えていた。

 もっとも、"会長"と呼ばれた少女は、一切気にしていない。調子は始めから一貫している。静かながら通る声を、彼に投げかけるのみだ。

「それにしても、相変わらずつれないな君は。ここにいるのは、君と僕だけだというのに、役職名で呼ぶ必要などないだろう? "もこう"君」
「……素馨だよ、そーけーいー。いつも言ってんじゃん、そんな風に呼ぶなって」
「おや、まあ」
 ぎらりと鋭い目付きが向いても驚きもしない。

「なんだいなんだい。本当につれないなあ。他のみんなには、そう呼ぶのを許すのに、どうして僕に対しては厳しいんだ」
「あいつらは幾ら言っても無駄なんだよ。あんたは違うだろ? ……どうだ、この理由で」
「ふむ」
 顎に軽く手をやり、しばし勘案。
「うん、そうだな。そう言われると応えたくなる。よし。では、君が会長と呼ぶのをやめたら、その時改めるとしよう。どうだい、この答えで」

 暗に、自分からは直さないぞ、と。それを聞き、素馨は背もたれへの寄りかかりを大きくし、虚空に大きな溜息を一つ放った。
「あー……わーった。分かったよ。あんたにゃ敵わん。そうしますよ、天鳳院宮后会長」
「こら。会長は取ってくれと言ったばかりだぞ」

 名字の天鳳院は兎も角、みょうご、とは、女性らしからぬ響きの名前である。しかし、どこか男らしい喋り方をする彼女には、どことなく似合ってい た。

「前置きが長くなったが、噂の話だったね」
「噂……噂ねえ。俺の耳にはとんと入らねえけどな」
「態度と目付きを改めれば、或いはと言ったところかな。まあいいさ。件の噂とやらは、君の姉君を動かしそうだったものでね」
「おい」素馨の体が背もたれから浮く。「き、から始まるあれじゃねえよな?」

 宮后はにこやかに言った。「残念ながらそうなんだ。聞いていくかい? 如何にも奇妙なりける吸血鬼の噂話を」
「手短に頼む。今し方用事ができた」
「なに、安心したまえ。すぐに済むさ」

 

 二十分後、素馨は学内のある場所の前にいた。一般に部室と呼ばれる場所だ。だがそのネームプレートは、それが本当に認可された部活なのか見る者を 悩ませるものだった。

 曰く――――"吸血鬼探索之団"。

「ちぇっ」
 そのように銘打たれた部屋を見る度、素馨は腹が痛んだ。
 創立者が、自分のよく知る人でなければいいのに。そう思いながら、滴る血のような赤い文字を見上げる。

「なんだって、このばかげた部活を、姉貴は作ってんだ。……あン?」
 呟きとほぼ同時、部室の滑り戸が開いた。そして小さな塊が飛び出して、彼に激突し、床に倒れた。
「あべしっ。ぅおおっ、なんじゃあ? ……お、モコーだ! ぶちょー、モコーきた、きたよモコー!」
「うっせえよ、チョコ。もこもこ言うな」

 ちょこまか動き回るから"チョコ"。自己紹介で名前を覚えられなかった時以来、素馨は目の前にいる小動物型後輩(♀)をそう呼んでいた。一 年後輩であり、彼が渋々所属しているここ、吸血鬼探索之団の後輩でもある。

「やー、人のことをチョコって言ってるんだから、お互い様チョコ!」
「語尾……ああもう、突っ込むのも面倒くせえなあ!」
「にゃっはっはっはっは」
「ええい、邪魔だ。邪魔」

 どけどけと、小動物を横にズラして部室に足を踏み入れる。
 入ってすぐに気付くのは、仄かに漂うジャスミンの香りだ。部屋自体も整理されている。
 それ自体は好ましい。が、素馨にとってはそれも悩みの種であった。

「掃除するのが、なんで俺しかいないんだよ。じゃなきゃもうちょっと楽できるっつーのに。……あン?」
 立ち止まる。制服の背中側に突っ張りを感じたのだ。彼のものは、宮后とは違い、昔ながらの紺の学ランである。それが、ぴんと伸びていた。すわ、扉にでも 挟んだかと振り返れば、 なんのことはない。小動物が取り憑いていた。

「……。ようこら、小動物。人の服にぶら下がってんじゃねえよ。歩けねえだろが」
「そう言いつつ軽々動くモコーが素敵! てかさ、これサイズなに? Z? ゼットン?」
 返事はせず、猫かなにかのように小動物をつまみ上げる。そして、頑丈そうなスチールラックの上に放置して、部屋の奥に歩き出した。もっともその間、件の 小動物は黙っていなかったが。

「たぁっけえ! あちしは今、新世界を見ているゾ! あれ? ところでここってどうやって下りるの? おそるおそる……たぁっか! 下怖っ! 新世 界怖っ!」
「こいつの元気を分割する道具、未来から来ねえかなあ! ったくよぉ。誰かこいつの口を塞ぐ絆創膏くれってんだ」

 わめく小動物に、うんざりした顔を覗かせる。だが、小さな笑い声が部屋の奥から聞こえると、彼の顔からは、ぽろりと険が落ちた。

「そーちゃん。ダメですよ、そうやって意地悪しちゃ」
「姉貴」

 部室の最奥には、軽く折り曲げた指を唇に当て、微笑む少女がいた。それは、素馨の姉である茉莉花だった。
 彼女もまた、この学校の生徒である。ただ、制服は着ていない。彼女自身の特殊な趣味により、服はほぼ黒一色の多装飾ドレスである。俗に言うゴシックロ リータファッ ションに近いか。ただし、フリルなどの装飾は少なめだ。化粧気も少ない。ついでに顔色は相当悪い。髪を後頭部に掻き上げて纏めても、僅かも活発さが増さな い。
 それでも素馨は、彼女の体調が幾分かマシな日だと知っていた。

「よ。今日はまだ元気そうだな姉貴。何回吐いた?」
「んー……まだ二回。元気元気」
 力ない笑みと、顔の横にすら来ない力こぶ。どう見ても元気とは程遠い姿だったが、素馨は「そっか」と笑うだけだった。

 そして彼は、表情を引き締める。ここに来るまでに考えていた作戦を実行するつもりだった。
 そも、吸血鬼がいるなどという噂が耳に入っていれば、姉は間違いなく探しに行こうと言うだろう。だが、幾ら調子がいいと言っても、当てもなく探し歩く体 力は彼女にない。なら、始めから別の誘導をすべき――――それが、彼の考えた作戦である。

「姉貴」
「なあに、そーちゃん」
「いや、さ。折角調子良い日なんだから、映画でも行くか?」
「もー、なに言ってるんでしょうね、そーちゃんは。今日はこれから、噂の吸血鬼探しに決まっています。おー」
「あー……」

 遅かった。やっぱり噂を聞かれていたよ、と素馨は頭を掻く。面倒臭いと全身から醸しだし、しかし、ふらふらと歩いてきた姉の口元を見て、彼は眉を 跳ね上げ た。
 "いつもの兆候"に気付いたのだ。

「――――ごふっ」
「あっぶね!」
 一瞬棒立ちになり、茉莉花が血を吐いた。しかし素馨の方が早い。たぐり寄せたバケツに、血の滝はダボダボと流れ込んでいく。

 

 茉莉花お姉ちゃん

 

「間に合った……。あっぶねえ。姉貴、大丈夫か?」
「……けふ。大丈夫ですよー。さ」
「さ? さ、じゃねえだろ。さ、じゃ。こんだけ血ぃ吐いておいて、さあ出かけましょうとか言おうとかそういうつもりじゃ……だから話を聞けよっ!」
「ほらほら。早く早く。一日はすぐ終わっちゃいますよ。時間は有限。タイム・イズ・マウイっ」
「ああ、くそっ。やっぱり止まんねえし! マウイ島の主成分を変えんな!」

 苛立たしげに意味のない突っ込みをしつつ、姉を追いかける。強引に止めればいいのだろうが、彼はそうしない。あくまで追い付き、血の滴る口元を 拭ってやったり髪を 整えたりするだけだ。不良風と見えた外見から、余りに乖離した甲斐甲斐しさ。それが彼の素なのだった。

 もっとも、姉に対してのみの甲斐甲斐しさだったが。

「……あれー?」

 ぽつりとスチールラック上で佇む小動物がいたことなど、彼の頭からはすっぽり抜け落ちていた。

 


「というのが、昨日の状況だったな」
「あ、あいぃ~……その通りでし……」
「よし。じゃあ聞かせて貰おう。どうしてこうなった」

 血痕が転々と散る部室にて。
 怒気を滾らせ、仁王立ちする素馨。その前で狸の焼き物を抱かせられ、半泣きで正座をするチョコ。余りに対照的な二人だった。

「うーうーうー!」
「おいこら。うめいていいても分からないぞー? 部室が血まみれになっている理由を言ってみろってんだ」
 顔は笑っていても、目は笑っていない。
「うご、うごごご。か、回想に入りたいので、せめてこれをどかしてくりゃれ……」
「絶対にNOだ。そのままやれ」
「しどい! 鬼、悪魔、ハリガネムシ!」
「よし。子供を追加しよう」
「ふぎゃあ! タヌさんに子供できましたー!」
 焼き物の頭に、更に鉄製の分福茶釜が乗ったところで、チョコはぽつぽつと話し始めた。

「まず、あちしは一人で寂しく残されたのです」
「騒がしすぎるお前には、丁度いい仕打ちだろ」
「ひでえ! 素で忘れていたクセにっ!」
「?」
「なにが問題なのかという顔……っ! あり得ない……っ! あんなことをしておいて……っ!」
「喋り方がうざったい。さっさと続けろよ」
 半泣きが、全泣きに変わる寸前だった。

「うう、それであの新世界からどう下りようかと超考えたわけです」
「そうかそうか。つまり、なにも考えてなかったんだな」
「うにゃあ! ちょ、ちょちょちょ超考えたから! バカにしてんじゃねー! 超考えなければ、あのぶら下がる電気コードに飛びかかろうなど、誰も夢にも思 うまい!」

 チョコがぴっと指さした先には、半分千切れた吊り電球のコードがあった。素馨の額に漫画のように青筋が浮く。

「予想は付いていたがよ。罪状追加だ、この野郎っ」
「ふはっ?! しまった!」
「おら。はよ話せや、続き」
 ドスの利いた声と共に銀製の狸孫が追加され、チョコの呻き声が更に大きくなるが、素馨は容赦しなかった。

「あ、あれに掴まろうとして飛んで!」
「とうとう行動まで小動物化したか」
「掴んだのはいいけど滑って!」
「へえ」
「そのまま下の傘で跳ねて!」
「ああ、そりゃ切れるだろうなあ」
「でもって、意図せぬ所に落下して!」
「落ちは、大体分かってきたが、一応聞いてやるよ」
「はいっ! 落ちたところにバケツがあって、ばしゃーん! でした! 落ちだけに落ちました! ひゃっほーい!」

 部屋の中の状況を見るに、彼女の話は合いそうだった。ただ、まだ語っていないことを、素馨は見逃さない。

「ここら辺はそれでいい。じゃあ、ありゃなんだ。どうして、バケツをひっくり返した場所から結構離れている鏡の方まで、血が散ってんだ」
「ははあ。それが分からないとは、君もまだまだだね。ワトソン君」

 パイプをふかす幻影を見せるチョコの膝に、素馨は黙って金の狸曾孫を追加した。

「ひぎぃ!」
「こっちも暇じゃないんだ。分かるよな? ん?」
「すっませんっしたー! 血をひっかぶった姿を鏡で見て、赤いちゃんちゃんこみっけと騒ぎましたー!」
「そーかそーか。有罪でいいよな。答えはもう聞いてやらん」

 これにて事情聴取終了と、素馨は全部の狸を取っ払い、チョコを簀巻きにして窓からぶら下げた。部室は三階である。強めの風が、カーテンとつり下げ られたチョコを揺らした。

「たたた、超たっけえ! 新世界どころか、天界発見じゃね?! 先生先生っ、口からなんか出そう! 魂とかエクトプラズマボンバーが!」
「さり気なく攻撃すんな。反省するまで、ずっとそこにいろ」
「えーうー」

 

 それからしばらく、血痕除去作業を進める素馨の耳には、時折ぎっこぎっこ揺れる紐の音が届いた。

「おい。揺らしすぎて切れても知らねえぞ」
「だだだ、だって揺れる! 風で揺れてる! ……でも、だいぜうぶ。死んだらずっとモコーの背中にしがみつくからー!」
「はいはい。いつも通りいつも通り。ちっと黙ってろ」

 にゃふーと、妙な唸りがして、音がぴたりと止まった。風も止んだらしい。しばらく、紐の掠れもチョコの声も全く聞こえなくなった。
 余りに静かなため素馨は少し心配になり振り返るが、紐はしっかり括り付けられたままで、チョコの小さな頭もしっ かり見えていた。

「おい、急に黙るなよ。落ちたかと思ったじゃねーか」
「にゃんたる理不尽。黙れと言われて黙ったら怒られた!」
 ああ、と素馨。「言ったか、ンなこと。悪かったな」
「もうー、しょうがにゃいにゃあ。……。ね、ね、モコー」
「あん?」
「今日、部長は? 吸血鬼は見つかった?」
「昨日の捜索で、死にそうになってた」
「なるー、休みかー」
「まあな」
 じゃあじゃあと続ける。「吸血鬼は? 来た? 見た? 勝った?」
「いるわきゃねえだろ、んなの。勝負させてんじゃねえよ、バーカ」
「そっかー。いなかったかー」

 それからも、しばらく沈黙が続いた。掃除が終わるや否や、素馨はチョコを引き上げるが、彼女は疲れた顔どころか、ニコニコと笑っていた。

「……頭打ったか?」
「しどい! 静かに待ってたのにその言い草!」
「そうかい。だったらいいんだ」

 その日は、それまでだった。部長である茉莉花がいなければ、解散は早い。

 だれるチョコを部室から追い払うと、素馨も帰宅準備を始める。戸締まり、鍵の返却は当然。
 帰路では、スーパーにも向かう。家事の一切は彼の役目だ。ほんのり赤いご飯を食べたくなければ、自ら動くしかない。

 そして、両手に袋を抱えた彼が家に辿り着く頃には、日が傾いていた。

「おーい。姉貴帰ったぞー……おーい」

 帰宅の挨拶に返事がない。嫌な予感がして靴箱を覗き込むと、靴が一足消えていた。ついでに、帰ったら一緒に行こうと言っていた、引っ越し回りの贈 答品も。
 よくよく見れば、点々と続く血痕が、玄関口から外に出て行っていた。

「あぁぁあああーねぇぇぇえええーきぃぃいいいー! どこ行ったんだコラー!」
 家を飛び出して、血痕の導きのままに走り出す。

 最初の曲がり角で、姉は倒れていた。

 

 結局次の日も茉莉花は休み。部活は、この日も短かった。

 その次の日も、彼女がじっとしていることはなく、道路のど真ん中で血だまりに倒れていた。理由はと素馨が問いただせば、曇りだったから吸血鬼が歩 いているんじゃ無かろうかと思ったという。バカかと思わず言ってしまった素馨だが、彼女の顔が曇ると、慌てて謝った。

 ちなみに、倒れているところを目撃し言葉を失っていた女子大生へのフォローも、素馨は忘れなかった。口止め、もといお詫びとして菓子折を持って 行ったのだ。偶然にも、隣のアパートに住んでいるらしいので、無駄にはなるまいと、彼は無理矢理自身を納得させた。

 そうして時は流れ、ハロウィンが来た。

 

「そのハロウィンの日、さあて俺はなにをしているんでしょーねーっと」
 釘を咥え、ハンマー片手に部室の飾り付けをする素馨の姿がそこに。愚痴りつつも手を止めない辺りが流石だった。

 姉に前日の夜、囁かれたのである。
"折角のハロウィンですから、部室をそれっぽくしたいですよね"と。

 一日で、ビッグサイズの南瓜やら、きらきらのファーやらを集めた自分を誰か褒めてくれ。彼は心の中で呟いた。

「……これだからシスコンって、会長に言われんだろうなあ」
 溜息を吐く。丁度、携帯が震えたので、懐をまさぐる。
「なんだ姉貴じゃねえか」
 着信音で分かっていたが、改めて画面に表示された名前を見て呟く。

「あいよ、俺だ。どうかしたか。さっさと来ないと、部室の飾りが無駄になるぞ――――」
<…………>
「姉貴?」
 ざりざりと雑音。
 だが、一言だけ確かに聞こえた。

<そー、ちゃん……>
 切断。途切れた音声。素馨の目が見開かれる。
「……姉貴?」

 

 茉莉花が目覚めたのは、薄暗い倉庫の中だった。
 手は細い縄で縛り上げられ、外せばアザが付いていようことは予想に難くなかった。

「あら」
 そこで思う。どうして自分はここにいるのだろう。
 確か、と思い返す。ここに来る前にしていたこと。久々に学校への登校を果たし、弟がハロウィーン用の飾り付けを部室にしてくれると聞い て、楽しみに待っていたはず。

「んん」
 首を捻る。そこで確か、誰かと話したのではなかったか。よく知っている後輩と。そう、確かあれは――――

 

「あ。ぶちょー。目を覚ましたみたいだね」
「ああ~、チョコちゃんじゃないですかー」

 丁度良かった、手の紐をほどいて下さいな。そう言いかけたところで、茉莉花は頬に熱い感触を受けた。はたかれた。頭ではそう気付いても、理解が追 い付かなかった。

「やだなあ、ぶちょー。――――あんたが、チョコって呼ばないでよ」
「チョコちゃん?」
 今度、熱い感触があったのは、腹の辺りだった。

「呼ぶな、って言ったんだよ」
 意識が混濁し、最後の言葉は聞き取れなかった。

 

 姉の場所は、すぐに知れた。彼女の携帯には、追跡装置を仕込んでいる。
 だが、現場に辿り着いた素馨が見たのは、茉莉花の頬を薄く裂き、流れ出た血をちろりと舐めるチョコの姿だった。
 意識を失い、だらりとぶら下がる姉の顔に舌を這わす彼女を見た時、彼は一も二もなく倉庫に足を踏み入れた。
 邪魔な倉庫の扉は、握り拳で排除した。頑丈なはずの鉄の扉が、くの字に折れ曲がり、倉庫の床に落ちる。派手な音にチョコも当然気づき、振り返って眼を細 めるのが見て取れた。

「や。モコー。モコーは、相変わらず馬鹿力だね」
「……チョコ」
「はーい、チョコですよ?」

 にこりと笑う彼女は、前に見た姿からなにも変わっていなかった。
 三日前も。二日前も。昨日も。ずっと同じ顔で笑っていた。
 だから、ようやく素馨は気付いた。

「いつ、やられた?」
「すごいや、モコー。すぐ気付いた」
「いつやられたんだ……っ!」
 いつも活発に笑う彼女が、素馨の激昂を受けて、困ったように眉を寄せた。
「分かってるくせに」
「血を、ひっかぶったせいか?」
「多分ね。あ、でもいいんだよ。気にしてないから!」

 全力で手を振る。強がりでなく、本気で彼女は言っていた。その返答は流石に予想外で、素馨は眉を顰めた。

「どういう――――」
「だってさ。これで、一緒だもん。モコーと一緒。ほら、さっきモコーがやったこともできるよ」
 鈍い金属音。転がっていた鉄の扉に、新たな拳の型が付いた。素馨がつけたものに比べれば、格段に小さい。だが、小動物扱いしていたチョコが、それをやっ てのけたことに、彼は目を向いた。

「もしかしてさ、よく分からなかったけど、モコーも同じ感じ? 思い返せばさ、ほら、力も凄く強かったし」
「……どうして、姉貴を攫った。チョコ」
 答えずに問い返した。チョコはにっと笑った。二本の鋭い牙が口元に覗く。

「だってさ、卑怯じゃん。いっつもさ、モコーと一緒。姉弟だからって、べたべたくっついてさ。嫌だったんだよ、あちし」
「お前、そんなことで」
「そんな、こと?」
 そこで初めて、チョコは感情を爆発させた。
「そんなことじゃない! あちしは、ずっとモコーと一緒にいたかったんだ! そのためだったらなんだってする!」

 ダムが決壊がそうであるように、彼女の感情は苛烈だった。地団駄が床に穴を空け、衝撃で飛び上がった扉を殴り、素馨の背後まで飛ばす。
 そして、その手で茉莉花の首を掴み、鋭く尖った爪で彼女の首筋に五筋の傷を生んだ。それを見て、いよいよ素馨の髪が逆 立った。

「テメエ……!」
「あっと。ダメだよ。モコーが返事してくれないと返さない。ね、あちしの方が一緒。こんなの捨ててさ、一緒に行こうよ。ね?」

 空いた手の指を鳴らす。倉庫の物陰に隠れていた人影が、次々に姿を現した。スーツを着たサラリーマン、特攻服に身を包んだ不良、女子高生、 OL、様々だった。全員に共通していたのは、誰一人として生きていないこと。

「ふふ。モコーってば信じてなかったよね。こんなさ、吸血鬼が本当にいるなんて! あちしだって、一週間前までそうだった! でも、本当はいるんだ よ。今は、あちしがそう!」

 彼女が手を振り下ろすと、動く死人が、素馨ににじり寄った。
 彼が如何に力自慢であろうと、これだけの人数に囲まれれば勝機はない。

 それが分かっているのだろう。彼は俯き、もごもごと口を動かすだけだった。

「……」
「どうしたのモコー。早く一緒に行くって言ってよ。じゃないと、死んじゃうかも!」
「……とのこと」
「んん?」

 すうと、大声を出すための呼吸。「人のこと、モコモコ言ってんじゃねーぞ、人でなし風情がァ!」

 叫び、彼は手近に立つ、サラリーマンのスーツを掴んだ。そして、"腕の力だけ"で、その男 を投げ飛ばした。

「――――え?」
 牙を生やし、化物となったチョコも、その光景には目を剥いた。
 大の大人一人を腕一本で投げ飛ばす高校生。古武術やなにかではない。本当に腕力だけなのだ。それも、投げられた側は、十人ほどを巻き込んで尚止まらな い。壁に赤い花を散らし、それでようやっと止まるほ どの勢いだった。
 およそ、人ができる所行ではなかった。

「も、モコー?」
「おい、何度いわせんだテメエ。千代。誰がテメエに、もこうなんざ呼ばせることを許したよ。ええ?」
 自己紹介以来忘れていたはずの名前が、するりと出た。だが、彼はそんなことは気にしなかった。唯一気に掛かるのは、彼女の手に掛かった姉の姿だけであ る。

「こ、来ないで!」
「今更か? ざけんな、来いと言ったのはテメエだろうが」

 素馨は無造作に近寄ろうとし、だが足を止める。
 千代の手に力が入ったのを見たのだ。気を失っているようだが、姉の呻き声を素馨は無視できない。俯き、唇を噛み、止 まるしかない。
 千代もそれが分かっているのか、歪んだ笑いを浮かべていた。

「う、ふふ、ふふふっ! 来れないよね! だって、モコーはぶちょーが大好きだもんねえ!」
「……ああ。姉だからな。たった一人の肉親だもんな」
「だったら、そこでわたしの下僕共に食われなよ! それで一緒になろうよ、一緒に行こうよ!」

 ゆっくりと、素馨の顔が上がった。
 そこに浮かぶ表情は――――なんでもなかった。
 千代は、そこになにも感じられなかった。人にそんな顔をされたことが、今までについぞ無かったのだから。

 人が、完全になにかを諦めた時にする顔を、彼女は見たことがなかった。

「千代」
「な、なに。もこー」
「残念だ。俺も、割とチョコは気に入ってたんだ」
「あ……だったら!」

 希望ができた、と。僅かに口の端を持ち上げかけ、しかし、千代はぴたりと止まった。素馨の言い方が、妙だったからだ。

「も、もこー?」
「ちっとは、どうにかなるかと思ってたんだが……」
 "思ってた"。過去形だった。

「無理だ。俺の手には負えない」
「なにが、言いたいの」
「チョコはさあ」
 どこか、千代は自分のことを呼ばれているように思えなかった。
「わたしが……なにさ」
「お前じゃない。チョコさ。アイツは、死んだんだなあ」
「……なに言ってるの。わたしはここにいる! ずっと、前から変わらず生きているんだか――――」

 彼女の口が止まる。いや、口は動いていた。舌も動く。だが、声が出ていなかった。まるで体の中身を全て握りつぶされたかのよう。

(どう、して……)
 焦る。素馨は近づいてくる。早く動かないと。だが相変わらず体は動かない。なぜか。どうして自分の体が自分の支配を離れたのか。あまつさえ、下僕として いた死体達からのフィードバックもない。
 目が揺れ、視界が不規則に揺れる中、一つの場所に彼女の目が止まった。
 

 見たのだ。虹色の光を。

「チョコは、死んだんだもんなあ。……しょうがねえよなあ」
(目――――モコーの目――――――――!)

 指先一つ動かせば、人質を殺せる状況にあって、千代はぴくりとも動けず、

「しょうがねえよな」

 素馨の手が首に掛かってもぴくりともできず、

「……死んだなら、しょうがねえよな」

 余りにもあっけなく、その二度目の生涯を閉じた。

 

 

 夕方の緋色に照らされて、茉莉花は目を開いた。
「ん……そーちゃん?」
「ああ。どうした、姉貴」
 素馨に背負われていると、すぐに理解した彼女は、ふるりと首を振る。
「んーん。なんでもないです」
「そっか」

 しばらく、長い影法師を見て、また彼女は口を開いた。
「そーちゃん」
「なんだ」
「怖い、夢見た」
「どんな」
「チョコちゃんがね。わたしを殴ったの」
「ハ。ありえねえだろ、それ」
「でも、凄く痛かった。あれ、本当?」

「何言ってんだ」立ち止まる素馨。「今、どっか痛いのか?」
「あ」
 言われて気付いたと、背負われたまま、茉莉花は自分の体をまさぐった。

「うーん。痛くない」
「じゃあ、夢だろ」
「うん。夢だった」
 にへらと笑い、目を瞑って顔を素馨の首筋に埋めた。

「くすぐったいだろ、やめろよ」
「や、です」
「ガキか」
「子供だもん」

 言って思い出した。
「そーちゃん、そーちゃん」
「なんだよ」
「えへー。トリック・オア・トリート」
「あー……そういえば、ハロウィンか」
 器用に、姉を背負ったまま素馨は自分のポケットに手をやり、そしてなにも出さなかった。

「悪い。なにも持ってねえや」
「じゃあ、いじわるしちゃうぞ」
 ぎゅ、と。首に絡めた腕に力を入れた。互いの体が密着する。
 主に素馨の背中と、茉莉花の意外とふくよかな胸が。

「あ、あああ、姉貴?」
「んふー。なんですかそーちゃん」
「いや、あの、ちょ……首が絞まってる」
「ふっふふー。うりゃうりゃ」
「こ、こらっ。やめ、うわ! ……って、なんか液状のものが背中にー?!」
「げほげほげほ」
「うおおい! いたずらにしてもやり過ぎだろ!」

 ふらふらと揺れる影法師だけが、彼らの行動をしっかりと写し取っていた。

 

 終局。

「ああ、会長。俺だ」
<おや、君から連絡とは珍しい。会長はやめてくれよ>
「まあな。悪いな、宮后。……やっておいた。始末はいつも通りに頼む」
<そうかい。それだけかい?>
「ああ」

 電話を切ろうとし、いや、と止まった。
「一つだけ頼む」
<これまた珍しいな。聞こう>
「今度の奴がさ、姉貴の知ってる奴だった」
<ふむ>
「なんとかしてくれるか?」
 暫し沈黙。カタカタと端末を弄る音が響いた。そして。
<分かった。君の頼みは断れないからな>

 

 次の日。
「おーす」
「お、モコーだ! ぶちょー、モコーきた、きたよモコー!」
 いつも通り、部室に響く声に、素馨は言った。

「うっせえよ。人のことを、もこもこいってんじゃねえぞ。――――チョコ」

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