「失礼しまーす」
ひょこりと、壁から覗いた小さな顔。人懐っこい感じのする、愛らしい顔立ちの少年だった。
丈の長い緑の上着を、ワンピースさながらに着こなすその人影は、きょろきょろと部屋の中を窺い始めた。
「あのー、こっちにロビンいないかな」
応えたのは、唯一部屋に残っていた少女剣士の素振りの音だけだった。
「……いないか。ごめんねー、アリス。邪魔しちゃって」
尚続く、素振りの音。
「あれ?」
返事がないことに彼は首を傾げた。
素振りを止めないだけでなく、返事もしないというのは、少女剣士もといアリスらしくない。
普段ならば、こうして声を掛けるどころか、部屋に入る前に向こうが気付いて先に挨拶をしてくるのが常である。
(何かあった……のかな)
もやっとした心配が、心の裡に生まれた。
「うーん」
だが近づこうとは思えなかった。アリスは線の細い少女といった見た目とは裏腹に、恐ろしく速く鋭い素振りを繰り返していたからだ。
「近寄ったら真っ二つになったりとか――しないよね?」
まさかねと続けるも、どうしてか否定しきれなかった。
「……しょうがない、後にしようっと」
アリスが気付いたのは、彼がそう言って踵を返しかけた時だった。
「おや?」
虚空に向いていた視線が、緑の少年に注がれる。
「――あ、ああ。貴方でしたか。失礼、気が抜けていたようです」
「……ある意味そうは見えなかったけどね」 苦笑する。 「ごめんね、気にしないで。ちょっとロビンを探してただけだから」
「ははあ――彼ですか。今なら、恐らくはいつもの場所にいると思いますが」
「ええっ、またあ?! 明日はもう決行だっていうのにぃ」
「或いは明日に迫ったからこそではないでしょうか」
素っ頓狂な叫び声を上げた少年に、アリスは黄金に輝く髪を僅かに揺らして微笑みを見せた。
「貴方の言っていることは理屈では分かります。ですが、どうか彼の気持ちも分かってあげて下さい。そもそも、わたしにしても不安が尽きないのですか ら」
え、と驚きの声が上がる。 「……そっか。アリスでもそうなんだ」
「はい、それは勿論」 迷いなく頷く。 「ですから先ほどまで、彼と模擬戦闘訓練を行っていました」
「……ん?」
何か話がおかしいぞ、とまた少年の首が傾げられた。
そして今更ながら、彼にも周囲の状況が目に入った。そこら中に、出来立ての損壊があるのだ。
「これはちょっと、やり過ぎじゃない?」
頬を引きつらせ彼は言う。対してアリスは、小首を傾げるだけだった。
「そうでしょうか。体を動かさなければ不安に駆られて仕方がありませんでしたから。このくらいは普通かと」
「……えー」
本番は明日なんですけど、と少年は思うも口にはしなかった。代わりに一つだけ彼女に尋ねた。
「結局、どっちが勝ったの?」
「やはり気になりますか。そうですね、はっきりとした勝ち負けを付けた訳ではありませんが――」
アリスの部屋を後にした少年ののテンションは上々であった。
彼の脳裏には、幾度となく先の会話が浮かんでいた。
「ふっふふー。全くアリスったら……『決着はつきませんでしたが、それは彼がそうなるようにしたからです。事実上わたしの完敗と言っていいでしょ
う。いえ、そもそも準備を万端にしても、彼には敵う
気がしませんが。あれで
思い返すだけでは足りず、わざわざ声真似までしての一人芝居。存外声は似ていた。
アリスがこの場にいたなら、すぐさま止めさせただろう奇行だが、幸か不幸かこの通路に人通りはゼロだった。
「あー♪ 『決着はつきませんでしたが』……」
奇行が一段落したのは、アーチャーのロールに与えられた訓練室に彼が着いてからだった。
正確には部屋の入り口に面した廊下 の奥が見えた時である。
「は」 ぴたりと硬直。 「……これは、また」
見てしまったのは、とある訓練機材だった。しかも、とんでもない壊れ方をしている、それ。
「象が踏んでも耐えられる――筈、だったん、だけど」
自分の記憶に問い、彼はうんと頷いた。確かにスペック上は、例え象が踏もうが突進しようが、壊れるものではなかったのだ。
だが現実は違った。折り紙のように、機材は二つ折りにされていた。
「あは、は、はは、は」
乾いた笑いが思わず口から漏れる。
その他にも同様のスクラップがあった。その数は、百を下らない。
ある物は、ソーセージを握り潰したようにシャフトが捩じ切れていた。
プレス機に掛けられたように、ぺしゃんこの物もあった。雪だるまの代わりに、鋼鉄だるまもあった。
想像を絶する破壊の数々。それを見て、震えつつ少年は思った。
「――うん、決めたぞ。ロビンが今度同じことする時には、絶対に見学する!」
全ては彼の相棒の仕業。恐怖など感じる筈もなかった。
そして彼は扉に手を掛けた。
「ロビン、いるー?」
機械の駆動音から、誰かがいるのは確実だったが、それでも一声かけて入室を果たす。果たして探し人は、いた。
「なんだっ、またっ……止めにっ、でもっ、来た、かっ」
返事はすぐに返された。ただし訓練装置――滑車を潜った紐を介して、持ち手と重りが繋がっているだけの単純な機械――の動きは止まらなかった。
「……お」
訓練を止めないのは構わなかった。少年が固まったのは、その機械に取り付けられた重りが、余りにも大きかったからだ。
正方形の重りは、縦、横、奥行き、どれをとっても青年の何倍もある。それが見せかけの重りではないことは、持ち手から聞こえる『みぢり……』と言 う音と、幾重にもより合わせた特殊合金のロープが立てる悲鳴のような唸りが証明していた。
「ちょ、ちょっと何してるんだよ! そこまでやって明日動けなかったらどうすんだー!」
「そう、かいっ。――――ふん」
大きく息を吐いた直後、ロビンは持ち手を離した。
「ええっ!?」
慌てて耳を塞ぎ、口を開ける少年。衝撃は数瞬の間もなく訪れた。
「……うわったたたたた」
圧力すら伴った轟音だった。ぼうっとしていれば鼓膜が破れていたかもと、少年はぞっとした。
重りは床にめり込んでいた。この部屋全体が結界で覆われてなければ、そのまま船が沈んだかもしれない。
「ロビン! 放すならそう言ってよ!」
「大げさだな。接近速度の速い分子だけ弾けばいいだろう」
「できるかー! 全くもう……」
「大体お前がやめろといったんじゃないか」
「あんな乱暴に中止してとは言ってないっ。たく、もう」
文句を言いながらもタオルを放ってくれる少年に、ロビンは片手を上げて感謝の意を示す。
「で、用は」
「う、うん。休んで貰いたいってのも本音なんだけどね」
これ、と背中に担いでいた矢筒から一本の矢を抜き取る少年。それを認めたロビンの目が、初めてぎらりと輝いた。
「は、はは。そうか、やっと完成したんだな」
「うん。渡しておいてって、言葉が」
「そうか、そうか」
慎重に矢を受け取り、両手で軽く握り込む。
「――これさえあれば、如何な英霊といえど滅ぼしつくせるだろう」
彼は握った両手ごと矢を天に掲げ、神に祈るような体勢を取った。事実、その矢に祈りを捧げていた。必勝の祈りを。
少年は、そんなロビンの行動を、苦い顔で見やる。
「……本当に明日、なんだよね」
「ああ」
「戦うんだよね」
「勿論だ。そして、俺達の自由を掴むためだからな」
特別な容器に受け取った矢を収め、ロビンは自分の両手に目を落とした。
「俺達は、何一つ自分の意志では生まれなかった。生きもできなかった。だからこれだけは譲れないんだ」
顔を上げ、ロビンは視線を少年の物と合わせる。彼の両肩も力強く掴んだ。
「いいか。明日お前は始まるんだ。そのために俺は絶対に負けない。勝つぞ。そうしたら自由になれる。やっと生きられるんだぞ、フッド」
未来は明るいと、楽しげに語るロビン。だが彼の相方として生まれたもう一人の弓兵少年、フッドの顔は曇っていた。
ロビンの言葉が問題だった。彼は、俺達はと語り始め、お前は、と締めた。その心は、つまり。
「……ダメ」
「なに?」 ロビンは眉を顰めた。
「何がダメなんだ?」
「僕だけじゃ、ダメなんだ」
いつの間にか俯いていた顔をフッドは上げた。
「ロビンも生きなきゃダメだ。一緒に幸せにならなきゃダメだ。相打ちなんて、絶対にダメなんだから!」
その言葉に、一瞬だけロビンは驚きの表情を浮かべた。だがすぐに柔らかい笑顔に変わった。
「ああ――そうだな。これからもずっと一緒だ」
「うん――そうだよ」
そして彼らは互いを抱きしめ合った。
宗教画を思わせる光景の中、彼らは誓い合う。
「俺達は一緒に生きる。そういう、ことだろ」
「うん。僕達は二人で一人なんだ。離れちゃダメなんだ」
「……分かっている。分かっているよ、フッド。俺達が二人合わさって初めてロビン・フッドになるんだ」
抱き合う腕に力がこもる。その時、フッドはある匂いが鼻腔をくすぐるのを感じていた。汗と血の入り混じったロビンの匂い。彼が、今確かにそこにい ると感じたくて、フッドはそれを胸一杯に吸い上げた。
「二人なら何も怖くない。二人一緒なら何だってできる。そうだよね、ロビン」
「そうさ。フッド」
身を離したのはロビンからだった。そして彼は、フッドの頭をごつごつとした手で優しく撫でた。
「お前が見ていてくれれば、きっと勝てる。明日は必ずケリを付けてみせる」
それは、もう一つの決戦前夜。
神話になった少年と
第弐拾四話 鬼に金
士郎達に加えられた攻撃は、あっと言う間に千を越えた。
無数の矢が尽きることなしに怒涛の勢いで迫る。赤い壁越しにその様子を目の当たりにし、士郎は背に冷たい物を感じていた。
「自分はサーヴァントではないとかいってたけど、これそんなの関係ないだろ」
「あの、士郎さん。あんまり離れない方が……全方位に張ってるからちょっと操作が難しいんです」
「ああ、すまない。これくらいでいいか?」
「はい」
士郎達が未だに無傷なのは、ひとえにシンジのお陰であった。一本の矢も通さないATフィールドの存在は、彼らに心の余裕をもたらす。
今度ばかりは凛も、サーヴァントが彼であることに素直に感謝していた。
ただ、喜んでばかりもいられない。
「参ったわね……これじゃ反撃もままならない」
「すみません、少しずつなら移動もできるんですけど……」
「別にシンジのせいじゃないわよ。寧ろ怪我しないで済んでるわけだし。対策は考えるから、あんたはフィールドの維持に専念しなさい」
「は、はい」
シンジにそうことづけると、凛は残りの二人に向き直った。
「さぁて、どうにかする方法を考えないとね」
「どうにかって、そりゃまた曖昧だな」
呆れたような口調の士郎を、凛は睨みつけた。
「仕方がないでしょ。文句があるなら解決法を考えなさい」
「……結局どっちでもそうなるんだな」
「言い争いをしている暇はありません。兎に角、現状の確認から行いましょう」
二人を宥め、セイバーが手早く状況確認を始めた。
「相手の基本戦略は、昨夜のバーサーカーとは真逆です。どういうことか分かりますか、シロウ」
「ああ。バーサーカーは完全な力押しだったからな。サーヴァントごとマスターを倒せるパワーがあった。だけどあのロビンって奴は、リーチに比べて力 はそれほどでもないみたいだ。あいつの攻撃はセイバーに効かないんじゃないのか」
「はい。その通りです」 自信を持って頷く。
「幾ら狙いが正確でも、しているのはただ矢を放つことだけ。そりゃセイバーには通じないわよ」
「となると相手の狙いは何かというのが問題になります」
それを受け、凛は士郎とセイバーに目配せをする。
「決まってるわね。聖杯戦争の基本戦術なんだから。狙いは、そう――」
「マスターだ」「マスターよ」「マスターです」
三人の答えが一致する。
「じゃあわたしと士郎は後方に下がって、セイバーを先行させるのがいいかしら」
「そうですね。ただし逃げ道はないようなので、こちらに留まって貰うことになりますが」
セイバーが背後を指差すと、そこには部屋に入ってすぐ目についたのと同じような森が広がっていた。
「扉が――ない?」
「そうです。故に引くことができない」
「ったく、一体ここは何なのかしら。実は幻術と言われた方がまだ気がマシよ」
セイバーはその言葉を首を振って否定した。
「抵抗力の高いわたしやリンが、そんなものに掛かるとは思えない。未知の技術ではありますが、取り敢えずシンジの力が届く範囲なら安全です。シロウ とリンはここで待機を」
わたしは行ってきますと、飛び出す気満々のセイバーを慌てて士郎が止める。
「ちょっと待てって、セイバー。相手に向かうったって、場所が分からないだろ」
「矢の飛行パターンから割り出します。――何とかなるでしょう」
「何とかって、またアバウトな。大体、それだとセイバーだけが危険じゃないか」
「いえ」 これも首を振って否定した。 「むしろ倒せないと分かっているわたしへの攻撃は少ないでしょう」
「そ、そうかあ?」
根拠はない。セイバーも苦しい言い訳だと理解していた。それでもやらねばならぬ理由があった。
「ここで時間を費やす方が危険です。例のこともありますが、そもそもリンの魔力とて無限ではないのですから。シンジの張るこのフィールドが保たれて いる間に、けりを付けなければなりません」
凛もセイバーの援護に入った。 「そういうこと。納得しろとは言わないわ。だけど選択しなさい、士郎。桜を助けるか、わたしたち共々全滅するか」
そう問われれば、答えは他にない。
「……分かった。セイバー、頼む」
「承りました。必ずや貴方に勝利を」
不可視の剣を握る手に力を入れ直し、セイバーは森の深奥を見据えた。
「シンジ。わたしの合図で一瞬だけフィールドの解除を」
「本当に行くんですか? この中を」
「心配してくれるのはありがたいですが、時間が惜しい。早く」
「……分かりました。じゃあ少し前の方に進んで下さい。こちら側と切り離して、向こう側だけを解除します」
「分かりました」
シンジの指示通り、森側にセイバーは歩みを進めた。するとすぐに、彼女と士郎達の間にATフィールドの仕切りが生まれた。
「気を付けろよ、セイバー」
「はい。――往きます!」
宣言に合わせ、セイバー側のATフィールドが解除された。
同時に、これまで目標を失いただ飛び回っていただけの矢が、彼女に牙を剥いた。
「セイバー!」 「セイバーさん!」
矢の折に閉じ込められていくセイバーを目の当たりにして、士郎とシンジの声が重なる。
だが、剣の英霊には、些かの怯みもなかった。
「やれると思うな、魔弾の射手よ!」
セイバーの立っていた場所が爆発した。そうとしか思えないほど、激しい踏みきりだった。
地を滑るような跳躍。立ちふさがる矢は残らず斬り伏せられた。後方の矢は彼女に追いすがることもできなかった。
そしてあっという間に、士郎達の視界からセイバーの姿は消え去った。
「予想以上に向こうに食いついたみたいね。――まさか、本気でセイバーを倒す気かしら」
「それは無理だって遠坂も、セイバーも言ってただろ?」
「当然よ。あの矢に幾ら魔術的な意味が施されていても、セイバーはそれを打ち消せる。当てることはできないし、当てても意味はない。それが分からな い相手ではないと思うんだけど……」
だが何かが凛の中で引っかかっていた。
「仮に、セイバーを倒せるような切り札があったらどうする?」
「あの子の弱点をつけば、ありうる話ではあるけど」
「何だって?」
「でもありえない。士郎だって、セイバーの本当の名前は知らないでしょ? どうやって正体を知るというの?」
確かにと士郎は溜息をつく。 「じゃあ、なんであんなにセイバーに攻撃を向けてるんだ?」
「それを知るためには、動くしかない、か。――シンジ!」
「は、はい!」
「ゆっくりなら動けるっていったわよね?」
「ええっと。確かに行けると思いますけど、無理をすると、その……」
言い難そうに口を窄めるシンジを見て、凛はああと手を打つ。
「出力のバランスが崩れて、わたしがバターンて?」
「あ、えと……その通りです」 可哀そうなほどにしょぼくれた。
「……遠坂」
「ちょ、ちょっとそこまでへこまなくても!」
予想以上の反応に慌てて言い繕う。
「別に虐めるつもりはなかったの。本当よ。気を付けていればいいんだから。ね、もう大丈夫でしょ、シンジ?」
「――はい!」
そして士郎達の移動も始まった。
途中で士郎の使える魔術が、強化だけであると判明するなど、小さな騒ぎも生まれたが、次第に追いかけてくる矢が減るなどして、彼らの行進は比較的 静かだった。
木々の間を、白銀の光がすり抜ける。
それを追う黒雲。密集し過ぎた矢玉は、すでに塊と化していた。
「どこだ――どこからこの矢は」
まだ射手の場所を特定できない焦りからか、セイバーの口からは内心が漏れ出ていた。
「早くしなければ……」
<盾が持たない、か?>
朗々と響く声に思わずセイバーの足が止まった。しかし集結する矢を目の当たりにし、再び駆け出す。
<悪いが、俺の場所を探すのは無理だ>
「やってみなければ分かるものか」
<いいや>
セイバーに応えて、ロビンの声が響く。限りなく近いようで、果てしなく遠い所から聞こえるような不思議な声だった。
<お前たちが閉じ込められたこの場所は、縦横一辺二百九十キロの超圧縮立法空間だ。――まず見付けることは出来まい>
足こそ止めずに済んだが、これを聞きセイバーは確かに戸惑った。
「……二百九十キロ、だと?」
<そう。そして能力表を見たなら覚えているな? 俺の能力は、視界に収まる全ての対象物に、射撃を当てるもの。そして俺の視力は、お前達の遥かに上 を行く。――これがどういうことか分かるか?>
くくっと嘲笑が混ざった。
<お前に俺は見つけられない。だが、こっちはお前を撃つ。勝てると思うのか?>
「ふん。だからどうした」
セイバーはそれを卑怯だと罵りはしない。戦で手を選ばないのは当然だ。自分のフィールドに相手を招くのも、また王道。
だから彼女は無駄な労力を使うより、辺りを探ることに力を入れた。声が聞こえるなら、どこかにいる筈だと考えたのだ。
<――スピーカー>
答えは、相手からもたらされた。
<木々に紛れてそこら中にスピーカーがある。俺はそこにはいない>
「……おのれッ!」
辺りを探るため、少し移動の速度を抑えたのが仇になった。
セイバーの周囲を取り囲む矢は一気に増し、今や黒い雲のようになっていた。
全く先が見えない。最早彼女は、自分が前に進んでいるのか、後ろに戻っているのかすら定かではなくなっていた。
「こんなことで……! ロビン・フッド!」
<小細工だ。見逃せ>
そして聞き過ごせない一言を、彼は言い放った。
<一つ修正しておこうか。俺の狙いは、お前達のマスター――ではない>
「なに?」
先の会話が筒抜けであると、セイバーはすぐに理解した。
「待て、それでは、まさか……っ?!」
<そうさ。狙いは始めから決まっている。最強のサーヴァントと呼び声高い、セイバー! 貴様だけだ!>
それまでの落ち着いた声とは打って変わり、ロビンは興奮を隠しもしなかった。
<貴様を打倒し、我々は自由を得る!>
雲が渦を巻き、セイバーを取り囲む。
セイバーは、そこに一種の緊張を感じた。
――来る。
次に来るのは、恐らく自分を倒すほどの威力を持った何かだと直感が告げた。
それを証明するように、矢の雲が一気に巻き上がった。
集う。セイバーの前面に現れたのは、巨大な槍の形を成した矢の軍勢。
「これが貴様の……!」
如何な彼女と言えど、これだけ一度に食らえばどうなるか。
<潰れろ、セイバァァァ!>
ロビンの声で、矢の槍は密度と速度を増す。
――避けられない。
セイバーは事ここに至り、覚悟を決めた。
「ならば見るがいい、我が力の一端を!」
ぴしり、と。封印を解いた音は、果たしてロビンに届いたか。
それは、セイバーの手に握られていた不可視の剣が、とうとう姿を現した音であった。
***
――きたか。
セイバーが赤い壁より飛び出す様を、ロビンはその双眸ではっきりと捕らえていた。
「馬鹿め。留まればよかった物を。――いや、状況が俺に味方しただけか」
言いつつも、とても自分が有利になって喜んでいる様子ではなかった。
彼の戦法は、小細工を弄して勝ちを掴むものだ。だが、黒巫女の余計な行動に、彼は心から怒りを感じていた。
(そんな手助けをされずとも、俺は勝てるんだ!)
そう考えた所で、一時も休まず放ち続けていた矢に、僅かながら朱色が混じったのを彼は見た。
「ん?」
右手を持ち上げると、指先が軽く裂けて血が流れていた。苛立ちが過ぎたかと、ぺろりと指を舐め上げた。
「ふん。出て行く前に、あの女は一発殴ってやる」
にやりと笑いを浮かべ、いざ攻撃再開、というところで、彼は腹部に鋭い冷たさを覚えた。
「ぐ、が……っ!」
思わず呻き声を漏らす。冷たいと勘違いしたのは、鋭い痛みだった。
先ほどセイバーに斬られた胸の辺りが、急に痛みを増してその存在を訴えていた。
矢のコントロールは、それでも変わらず続ける。アーチャーとしての意地であった。
「くそ、くそっ、今更なんだって……ッ!」
息が荒い。一旦弓から手を離し、彼は左手を胸に当てた。
ぬめりを感じると同時に、一瞬で手は赤く染め上げられた。鼓動に合わせて、血が噴き出していた。
「こん、な……」
震える手で服を破き、止血を施す。少ししか斬られていないと思ったのは間違いだったか、と彼は思う。
実は大きく斬られていたのに、余りに深くて痛みに気付かなかったのか。
「――違う」
自分で考えを否定した。本当の所、見当はついていた。余りにも馬鹿らしい理由なのだ。
いつしか、彼は狂ったように笑っていた。
「ぁはあっ、は、ははっ、きひひひひっ――そうさ、分かってる。こうなるなんて、知ってたさ。だってよ、仕方がないよなあ? あそこまで敵意をむき 出しにしたんだ」
この状況を生むものは、たった一つだった。
彼の身に刻まれた
それは、生まれる以前に強制的に誓わされている、黒巫女 への絶対忠誠の呪縛。彼らが彼女に逆らえない最大の理由が、そこにある。
その効果範囲は広い。例え彼女に直接手に掛けずとも、その意向に逆らうだけでペナルティが下される呪いでもあるのだ。
ロビンは、当然ながらその存在を知っている。だがそれでも、自分の意志で反逆を行った。
或いは、戦う相手に申し訳なくて、無意識の内にその償いを求めたのかもしれない。
代償として、彼は回復力を奪われたのだ。
「いや違うな。……これは、怪我を悪化させる蝕みか」
じくじくと。ずきずきと。ざくりざくりと。如何様にでも表現できる/表現し尽くせぬ痛みが、絶え間なく頭を揺さぶる。
だが負けない。針の穴も通せる精密さで、矢をコントロールし続ける。異常に頑強である精神力だけで、それを支えていた。
(――負けん、負けん負けん負けん、絶対に負けてなどやらない!)
自らの裡で幾度となく叫ぶ。明滅を始めた視界を、意地でこじ開ける。
「まだだ。痛みがあるなら、まだ死んでいない。死んでいないなら、勝てる――――」
強がりであることは百も承知。殆ど自己暗示まがいのやり方で彼は、絞り切った雑巾のような体から、力を引き出そうとした。
「いいから言ううことを聞けよ、この……ポンコツボディが!」
自分で自分の体を叱咤する。
――効果があったのかは分からない。だが、弓を持つ手に力は戻った。
「……ふ、ふふふ。我が敵は最優のサーヴァント、剣の英霊セイバーだぞ。真名も知らないが、死に花には十分だ。ここで死ぬことに何の不満もな い」
ふと、弟のように思っている相棒の愛しい笑みが浮かんだ。
体の痛みとは別の痛みを覚えたが、彼は敢えてそれに気付かないふりをした。
痛みを誤魔化すためにセイバーとのやり取りを始める。
そしてスピーカー越しに、相手の焦りをロビンは見抜いた。
(好都合だ)
おもむろに背後の矢筒に手を伸ばし、ロビンは一本の矢を取り出した。
一切が樹からできている奇妙な矢だった。鏃まで木製だ。彫り物のようであり、飛ばすだけならまだしも、射撃に使う物ではないと思われた。
だが彼の力をもってすれば、それがまっすぐ飛ぶかどうかなど問題ではなくなる。飛ばせば当てられるのだ。
そして、そこまでしてその矢を使う理由は、それが彼の切り札だという一点に尽きる。
だから彼は何も迷わずにそれを弓に番える。
その短い行動の間に、彼にはある思い出が飛来していた。木矢が作られる切欠となった時のことである――――。
「あ、そういえば。鬼って知ってるかな、ロビン」
白いワンピースの少女がロビンに質問を投げかけたのは、がやがやと騒がしい食堂でのことであった。
大きな一つの三つ編みで纏めた金髪を揺らし、童女のように透き通った碧い眼が答えを待っていた。
「……むぐ」
一方のロビンは、厚く切り分けたステーキを口に頬張ったばかり。味を堪能するのを諦め、彼はすぐに飲みほしてから答えた。
「一応は。角が頭にあって、虎柄の腰衣を巻いた怪物だろう?」
「うん、普通はそう」
「ふうん。普通はって言うくらいだから、別の物があるんだな?」
「いかにも!」 えへんと薄い胸を張る。 「鬼っていうのは元々『死んだ者の魂』をいうの。だから、化物じゃなくて帰ってきた死者なんだよ」
「……へえ」
気の抜けた返事を返し、次の肉を口に運ぶロビンに対し、少女は口を尖らせる。
「何でそんな話をしているんだって思ってる?」
「ああ」
「えへへ、それはねー……だったら英霊も、鬼なんじゃないかって思ったの」
「そうか」 引き続き気のない様子。 「それが本当なら、何があるんだ?」
「そこだよ! あのね、英霊っていう括りだと、それぞれの弱点を調べなきゃいけないよね? だけど、もし鬼って大きく分けられるなら――どうなると 思う?」
ぴたりとロビンが動きを止めた。他のメンバーも食事を一時中断し、二人のやり取りに注目を始めていた。
「……言葉。回りくどい話は要らない。単刀直入に言ってくれ。もし、それが本当だとするなら……まさか」
彼が尋ねていることを先読みし、言葉は頷いた。
「うん。多分ロビンの考えている通り。上手くいけばどんな英霊でも倒せるかもしれない」
辺りが一瞬静まり返り、すぐにそれまで以上のざわめきに包まれる。
「そそそ、それって本当なの!?」
「お、おいこらフッド! 少し落ち着けっ」
「だだだ、だってロビン! それが本当だったら凄い事じゃないか!」
騒ぎ始めたのは、アーチャー組だけではない。この中で飛びぬけて背の高い男は、意地の悪い笑みを浮かべながら白衣を着た相棒を突いていた。
「おうおうおう。凄えじゃんか、言葉は。さあさあさあ、どうするよドクター」
「――いや。おい。何でお前がしたり顔なんだ、凶蜘蛛。おかしいだろう。それに続きも聞いてみないことには何とも言えないだろうに」
ドクターの一言で、再び言葉に注目が集まる。待ってましたと説明が再開される。
「順を追って説明するね。わたしは、戦場となるこの場所の昔話とかを探してたの。特に死んだ者が悪鬼として現れ、退治される話をね」
「ほう、となると元になった考えは、英霊の共通項か?」
「その通りだよ」
「確かにそれなら共通だからな。同じ対策を見つける鍵にもなりうる」
「そう。もし同じやり方で倒せるならわたし達の苦労が減るし、何よりも、ええと……」
ちらりとロビンや凶蜘蛛を窺う言葉。
「気にしなくていい」 視線に気付き、ロビンは軽く首を振る。
「ったく、さっさと言えよ」 こっちはぶっきらぼうに、凶蜘蛛は続きを促す。
「う、うん、分かった」 一旦深呼吸を挟む。 「あのね、もしかしたらロビンや凶蜘蛛でも英霊を倒せるようになるかもしれない」
つまり今は倒せないと言っている。言葉は申し訳なさそうな表情だったが、ロビンも凶蜘蛛も、それで傷付いた様子はない。寧ろ、獣臭が立ち上るよう な、挑戦的な笑みを浮かべていた。
「おもしれえじゃねえか。なあ、ロビンさんよぉ?」
「ああ。――で、言葉。その方法は?」
「うん、古事記ってのに黄泉比良坂物語っていうのがあってね。簡単に言うと、無くなった奥さんを黄泉の国に迎えに行く話の中にヒントがあったの」
そして彼女は、食卓にあった桃を掴んだ。
「黄泉の国で、酷い姿になっていた奥さんが怖くなって夫は逃げ出すんだけど、追いかけてきた奥さんに捕まりかけるの。そこで、たまたま見つけた桃の 木から実をもいで、それを投げつけて何とか逃げ切ったんだって」
これこれ、と桃を振りながら顔を上げて、また周囲の反応が芳しくないことに、言葉はすぐに気付いた。
「……まさか、桃を投げつければ勝てるってんじゃないだろうな」
冷めた目をした凶蜘蛛がそう言うのを聞いて、言葉は自分の説明はちゃんと理解されてるようだと安堵した。
「うん、大体そんな感じ」
「なぁんだそりゃ!」
当てが外れたと、悪態をつきながら席に戻ろうとする凶蜘蛛の服を、言葉は引っ掴んで止めた。
「話は最後まで聞く! いい? 桃っていうのは、色々な話に出てくる重要なものだよ!? 時の止まった楽園の名前は桃源郷! 孫悟空は蟠桃園の番 人! 三月三日は桃の節句! どうしてこんなに桃が出てくると思うの?!」
「え……いや、そりゃ」
普段、どちらかというと大人しい言葉に強い口調で問われてしまい、思わず凶蜘蛛はたじろぐ。
「あー……そ、そうだ! 美味いから、だろ?」
「ぶっぶー! 全然ダメー! そんなの理由にならないよ!」
大きく手でバツを作り、凶蜘蛛の答えを全否定する。
「ちゃんと理由はあるんだよ。桃はね、昔から仙木、仙果と呼ばれてて、邪気を払う物とされてるんだよ。それに五行的に見ても、桃は実も形も強くて堅 い金の気その物だから、変わらないもの、変化を拒むものという意味もあるし」
どうだ参ったか、とまた薄い胸を張る言葉を、彼女のパートナーであるアリスが突っついた。
「言葉。桃の蘊蓄もいいのですが、早く話を進めましょう」
「うー。だけどこの桃があるから次の話に繋がるのに」 少し傷ついた表情をするも、すぐに話を再開する。
「ええと、どこまで話したっけ……。あ、そうそう。死者、つまり鬼について調べていて、桃が出た。これでピンときたんだよ」
そして彼女は一冊の本を取り出した。
「……桃太郎? なんだ、ただの童話じゃないか」
「んーん」
いぶかしむロビンに、言葉は首を横に振って、にっこりと笑う。
「こんなに優れた鬼退治の教本は他にないんだよ」
「えええ? うそっ」
「ホントホント」
信じられないと声を上げるフッドをあしらいながら、彼女は白紙とペンを取り出した。
紙上に描かれ始めたのは、五芒星と干支と方角の対応図だった。
「先に言っちゃうと鬼退治で重要になるのは、金の気なんだよ」
そして図を書き終えて、彼女は顔を上げた。
「さて問題。京の都で桃園があったのはどこか知っている?」
ふるふると全員が首を横に振る。すぐに答えが明かされた。
「それは東北。丑寅、あるいは鬼門と呼ばれる方角にあったんだよ。鬼門は鬼が集まる所。そこに桃園を置いたのはその鬼を抑える為なんけど――何か気 付いたことない?」
「気づく? ううん……」 問われ、ロビンは首を傾げる。 「いや、待てよ。桃はさっき金の気と言ったな? だから置かれたのか?」
「それも正解。もう一つあるよね?」
「桃太郎が……鬼退治に行ったことか」
「そう!」 ぴっと指を立てる。 「正にそこ。桃太郎がしたことは、鬼門を桃園で抑えることと同じなんだよ」
五芒星の木火土金水の五気の内、金気の場所に桃太郎と書く。
「そしてお供に連れて行った犬と猿と雉。これは干支の方を見てみれば分かるけど、申、酉、戌と同じものがいる。その動物があてがわれた方角は、西」
「また金の気、か」
「そう。五行は土を中央に据えて、北に水気、東に木気、南に火気、西に金気を置いているからね。西の動物ってことはつまり金気ってこと」
金気の記述に動物達が追加される。
「で、今度は丑寅の話ね。ここは陰の気が極まる場所であり、同時に陽の気が始まる場所――つまり陰と陽、生と死の継ぎ目なの」
ここで彼女は、陽と生という二文字を書き、棒を一本隔てて陰と死という二文字を書いた。
「そして空間の丑寅も、時間としての丑寅も、艮というんだけど、それは終わりと始まりを意味している。死であり、再生であるということだから、変化 が激しい場所ってことなんだよ」
「状態のベクトルが変わるということか。成程それなら確かに変化の激しい場所だろう」
ドクターの合いの手に言葉は頷きを返す。 「だからこそ、艮を守るのは不変不動の金でなければならないの。桃太郎で言えばつまり桃太郎と、そのお 供ってこと」
方位と干支が書かれた図で、丑と寅の間に向けて矢印を引き、始点に桃太郎他と書く。
「そしてここからが相手を倒すために一番重要なポイント。この丑寅に金を配置するのは、相剋の関係からみると、生の繁栄である木気を剋すことになる んだよ」
そう言って彼女は、先ほど書いた生の文字を二重線で消した。
「更に、陰は陽である金に食われるから――」
残った文字は、「陽」と「死」の二つだった。
「さて問題です。サーヴァントにこれを当てはめるとどういうことになる?」
に、と笑う言葉を見て、全員が顔を見合せた。
「サーヴァントは仮の生を纏った存在と考えられるな」
ロビンがまずボールを蹴り出した。繋いだのは凶蜘蛛。
「んじゃ、生を取られると、死んでるつーことが剥き出しになるんじゃねえの?」
「そして陰の存在である鬼は、陽の場所にはいられない」
「光を遮るものがなければ、影は生まれないからな」
「と、いうことは……サーヴァントは存在が保てない? じゃ、じゃあ」
アリス、ドクター、フッドと会話が回り、最後に皆の声が重なった。
「サーヴァントは消滅してしまう」
わっと歓声が上がった。
「よく見付けたな、言葉」
「魔術はわたしの領分だからね、このぐらいは当然なんだよ」
三度胸を張ろうとした所で、凶蜘蛛がバンと彼女の背中をはった。
「あいた!?」
「やるじゃねえか、見直したぜ! あーあ。どっかの博士もそのくらい大発見してくれねえもんかねえ?」
凶蜘蛛のあてこすりに、目を閉じてやや震えるドクター。
「……ふ、ふん。だからお前の手柄ではないだろうと。――いや、それにしても言葉、君は素晴らしい。アレのたわ言ではないが、わたしも負けてはいら れないな」
すたすたと足早に食堂を去るドクターに、凶蜘蛛はケタケタと笑い声を上げた。
「あんにゃろ、飯もくわねー気かよ。頭良いけどバカなんだよな、あいつ」
右手に自分の皿、左手にドクターの皿を持って、ドクターを追いかける凶蜘蛛。去り際に一言残した。
「言葉ー。まあこっちはこっちでやるから、ロビンに具合のいいの拵えてやれよ」
「あ、うん」
凶蜘蛛を見送り、言葉はロビンに向き直る。待っていたとばかりに彼は口を開いた。
「それで、どうやって応用するんだ?」
「まずは相手に効く物として、鏃に金を塗した矢を用意するよ。そうじゃないと、霊体に攻撃を当てられないからね。で、本命として、鬼祓いの儀式に用 いられるような、桃の木から削り出して矢を作ることを考えているんだけど――」
痛みが、無理やりロビンを現実に引き戻した。
脳裏に描いたものは消えたが、現実に用意された切り札は勿論消えない。
今、彼が番えているものが、正に言葉の言った本命の矢である。
元を桃の木から削り出し、更に犬、猿、雉の血に沈め、十分にそれを染み込ませたもの。
「桃太郎を模倣して、鬼退治を再現する、か。――ありがとう、言葉」
ロビンは目を閉じ、ここにはいない仲間に感謝を捧げる。
後はない。一本を作るので精いっぱいだったと謝る彼女に、彼は十分だと答えたのだ。ここで外しては、男が廃る。
「見てろ。必ず、勝ってみせるぞ」
深く深呼吸し、目を見開いた。
狙うはセイバー。鬼に見立てられた、死したる過去の英雄。
「――亡霊め! 今消し去ってやるぞ!」
そして彼は、足に一際力を込めた。
***
交錯は一瞬だった。
セイバーは、保持する宝具の一つ、風王結界を解き放っていた。これにより暴風が巻き起こり、雲霞のごとく殺到した矢の大群を崩していた。
しかし中心部分は残った。尚一本の槍のように太いそれは、セイバーを串刺しにせんと彼女に迫った。
「はああぁぁぁ!」
だが、光り輝く英雄の前には全くの無駄。その一振りが、最後の一本までも捩じ伏せる。
(乗り切れる)
宝具と己の力量を合わせ、冷静に彼女は判断した。
だから、次に目に飛び込んできた光景は予想外だった。
「――まさかっ!?」
「今、地獄に送り還してやるぞ、セイバー!」
彼女の前面。正に全てを覆い隠していた矢が切れ始めた所で、見えぬほど遠くからこちらを狙い撃ちにしている筈のロビンが、迫ってくるのが見えた。
そして彼が放った、木の矢も彼女は捉えていた。
(遅いっ)
予想外の事態があったとて、彼女の体は自然とそれに反応する。彼女の力を持ってすれば、如何に至近距離で、如何に素早く放たれたロビンの矢といえ ど、余裕を持って弾ける。
――――な、に。
く、と。剣を振り上げる彼女の手に、僅かな抵抗があったのはその時だった。
それは本当に微かなものだ。
引き起こされたのは、時間にすれば数瞬の誤差にしか過ぎない。
だが、決してゼロではない遅れ。
明暗を分けるには、十分だった。
「…………」
信じられないという目で、セイバーは自分の胸当てを貫いた木の矢を見た。
ロビンは完全に笑う前に固まっていた。こちらも現実が信じられなかった。
互いの時間が動き出したのは、セイバーが崩れ落ちてからだった。
「ば……か、な…………」
「ぃいよしッ!」
最後にセイバーの手を留めた物、それはロビンが仕掛けた最後の小細工だった。
彼女に殺到させた大量の矢は、目隠しであり、誘導であり、囮であり、妨害だったのだ。
適切な場所に移動させもした。
彼女の近くにロビンが跳ぶために、目隠しの役割も果たした。
本命の攻撃だと信じ込ませて、意識を向けさせた。
だがあっさり矢玉が捩じ伏せられたのは、彼女が剣を再び振る際に通る筈の軌道上に、障害物として矢を浮かせておく意味もあったのだ。
「勝った……勝ったぞ! 俺が! 最強のサーヴァントに!」
ガッツポーズを取るロビンのことなど、最早セイバーには見えていない。
それよりもかつてランサーのゲイボルグに貫かれたのと、奇しくも同じ場所に突き立った木の矢を抜かなければならないと、手を伸ばしていた。
「あ――ぐ――――ぅ」
掴んだ。しかし抜けない。力が全く入らない。
「……存外足掻くな。だが無駄だ、セイバー。もうお前は滅ぶだけだ」
「…………」
言い返す余裕もない。ますます体から力が抜けていくのをセイバーは感じていた。
そして体は、ロビンの言葉を肯定したのかもしれない。なぜこの攻撃が通ったのかを、死にゆく頭で考え始めていた。
自分の弱点はこんなものだったのか――違うそんなことを考えている場合か抜かなければこれを――――なんだこれは魔術の類かそれならばもっと効く 道理がない――やめろ、まずはこれを抜くんだ――イタイイタイイタイ――――早く抜け早くしないと力がもう――――無駄だ何が無駄やることはなにをすれば ――マスター――わたしを助け――――守るのはわたしがすがってなんとする――しかいがしかいがががが――――助け――――わたし――聖杯を――――おお ををを――ロビンこんなこと――――――死ぬシヌしぬ―――戻るだけでなにがああベディヴィ―――――存在が否定され生きられな――――クるし――――剣 わたしの勝利――すみませ――わたしは負――シロウ――――誓い――――貴方と破―――すまないと――――――――
かりかりかりかり。いつまでもセイバーの指は矢の表面を掻いていた。
(予想以上に、粘るな……)
これはロビンにとっても予想外だった。
彼が放ったのは単純に言えば存在否定の術式である。存在できなくなれば、普通はすぐに滅ぶ。それが道理だ。
しかもサーヴァントという仮の存在相手ならば、効果は覿面の筈なのだ。
対魔力と言うのが高いのかとロビンは考えたが、それも克服していると、言葉は説明していたのを思いだした。
対魔力は、己に何らかの変化を起こすものを打ち消す力であり、しかし桃の矢は変化させるための物ではないから関係ないという話だった。
変化を拒むことで変化させる。矛盾した論理を内包する儀式礼装だからこそ為せるこじ付け。
『相手を言い負かせば勝ちの化かし合いみたいなものだからね』
聞いた時は笑ってしまった言葉の一言も、ゆっくりと死んでいく敵の前では全く笑えなかった。
「そんなに頑張らなくてもいいだろう。――どうせまた、座と言う所から別の時代に召喚されるんじゃないのか」
矢を引っ掻く音は止まない。
これ以上みているのは忍び難くなり、彼は宙に幾らか残った矢を掴み取った。
「止めだ。悪く、思うな」
セイバーの頭に狙いを定め、彼は弓を引き絞った。
引っ掻き音は続く。
「今度こそ惑うなよ……」
何か、矢の飛び回る音とも、弓の音とも、引っ掻く音とも、違う音が聞こえた気がした。
「……何だ?」
血を流し過ぎたためか、ロビンの視界は上半分ほど黒く塗り潰されていた。
異音も、だから彼は始め気のせいかと思ったのだが。
「違う。来る、何かが――?!」
酷い貧血で、動くのがやっとの彼が、やっと振り向いた時見たのは赤い何かだった。
血。
最早噴き出すだけの量も体に残されていないそれ。
だが他にもあった。自分を貫通した何かも、赤く輝いていた。
――――ああ、なンで、おれノ や ガ。
そして彼の意識も、そこでぷつりと途切れた。