衛宮士郎。彼は、この日二度目となる戦いを無事に乗り越え、胸を撫で下ろしていた。
自身が遠距離から狙い撃たれたこともあったが、凛のサーヴァント/シンジのお陰で無傷。逆にシンジは怪我を負ってしまったが、その高い治癒能力に助けられ、既に怪我はない状態。他、凛やセイバーも健在である。
それらを踏まえた士郎の内心/自分達が体験したのは、曲がりなりにも戦争と呼ばれる代物。ならばこの結果は上出来
ただ一つの問題は、その考えが事実の一端に過ぎないことだった。
/
遠坂凛。彼女の見方は、士郎とまるで違った。越えた三度の戦い、そして魔術師としての強烈な自覚が、彼女に事態の楽観視を許さない。
この場において、彼女が最も状況の劣悪さを自覚している/或いはセイバーも。故に、士郎やシンジが安心しきっている様子を見て、ほんの少しだけカチンと来るのも、仕方がなかった。
「あのね衛宮くん。安心するのは早いわよ。現状はちゃんと認識してる?」
「……ん? ああ、家に帰るまで気を抜くなってことか?」
「それも確かにあるけどね」 溜息混じりに、歩き出す。 「どうにも分かってないみたいだから、とりあえずここから立ち去りつつ説明してあげる」
その移動はやたらと早かった。その理由をシンジはすぐに悟る/見渡す必要もない惨状が、そこらに広がっているのだ。
アスファルトの捲れ上がった道路、細々の砕石と化した塀、無様に中身を晒す電信柱、等々。
「こ、これって、もしかしてやばいんじゃ……」
「だからさっさと来なさいって。誰かに見つかったりしたらとんでもないわよ」
流石に声を荒げたりはしないが、不機嫌さを感じさせる調子。これ以上何か言うと逆鱗に触れる/ここから逃げ切ることができないかもしれない。残りの三人は急ぎ彼女を追いかけた。
・
・
・
先の予告どおり、例の現場から離れたところで凛の説明は始まった。
「そもそも、バーサーカーというクラスは、元から強い英霊には適用されないクラスなのよ。強力な宝具があるのだから、わざわざそれを使えなくするなんて勿体無いことはしないの」
「つまり、本当は他より多少劣る英霊を当てはめて、力の底上げをするクラスってことか」
「そうよ」
割と物分りのいい士郎。説明は更に続く。
「だけどあれは違う。元々がずば抜けている英霊を、それも神の子であるヘラクレスをバーサーカーにしてしまった」
「鬼に金棒、ですね」
「そういうこと」
シンジの的確な比喩に、凛も頷く。
「とんでもないな、それ」
「ええ。サーヴァントは言うまでもなく。そして、それ以上にそのマスターがね」
バーサーカーのマスター=イリヤスフィールはいけ好かないが、その技量は認めざるを得ない。そう語る。
「でも、ヘラクレスって分かったんですよ。だったら弱点ぐらい分かるんじゃないですか」
「そうね。……相手が普通なら、そうするところなんだけど」
「え?」
頭痛を堪えるような表情。訝しげになるシンジ。
「それはどういう――――」
「シンジ。それと衛宮くんも。ヘラクレスの話は知ってる?」
「え? あ、はい。少しだけですけど」
「ああ。俺も一応知ってる」
結構、と前置き、 「で? ヘラクレスの弱点は思い浮かぶかしら」
「あ」
「む……」
言われてようやく納得のできた二人。彼女の態度の真意=ヘラクレスの弱点など分からない。あるとするなら――――
「あ、あれはどうだ。ヒドラの毒とか」
「あのね。そんなのが、どこにあるっていうのよ」 溜息混じりに一蹴。 「つまり弱点はなし。正に反則ってわけよ」
「むう」
黙りかけ、自分の隣にいる少女の視線に士郎は気付いた。
「そうだ。セイバーにも聞かなきゃいけないだろ」
全員の視線が一人の少女に集中した。
「どうだ、セイバー。お前ならヘラクレスに勝てるか?」
「……」
やや間。そして。
「不可能ではありません」
はっきりと言い切った。
「え、うそ」 流石の凛も動揺/目を見開く。 「そ、それって本当?」
「はい」
堂々とした態度が、その自信がはったりでないことを示していた。
「ヘラクレスにも負けない英霊だなんて……そんなの数えるくらいしかいないのに」
「――――ではわたしが嘘をついていると?」
視線の温度が若干低下。凛の背筋に冷たいものが走った。
「あ、そういうわけじゃないの。気に障ったのならごめんなさい」
慌ててパタパタと手を振り否定。それから彼女は、士郎をジト目で見やった。
「はあ……」
「……なんだよ」
「ああ。改めて何でそっちにセイバーがいっちゃったのかしらと考えていたところ」
「おい!」
憤りを見せる士郎/対照的に凛はそれ以上取り合わず。代わりに、口元に手をやりつつ別の問題に着手。
「さて、となると後の問題はあのバッタもの臭いセイバー達ね」
「バッタもの臭いって、遠坂さん……幾らなんでも」
余りの言葉に冷や汗を掻くシンジ。だが彼女は引かない。
「だってそうじゃない。セイバーはこっちにいるんだから。あっちは偽者! そうよね、セイバー?」
「あ、はい。確かにクラスが重複するということはありえませんし、そう考えるべきでしょう」
剣幕にやや押され気味になるが、セイバーも例の少女剣士達を偽者と断じた。
「だけど遠坂。偽者だとしても強さは本物だ。それに別に仲間がいるようだったし」
士郎の指摘。凛は頷き、立ち止まった。
「そう、問題はそこよ。本物の英雄や人外ならまだしも、そんな気配が全くしないただの人間に、どうしてあんな力があるのか。そして仲間は何人いるのか。どこに隠れているのか。等々。疑問点は山ほどあれど、現在わたし達はそれらに対する答えを全く持ち合わせてないと言えるわ」
彼女ならばもしかすると何らかの何らかの答えを持ち合わせているかもしれない/そう考えていた士郎は、内心軽く残念がった。
だが、話はそこで終わらなかった。腕を組み、右腕とその人差し指を立てて笑顔を浮かべた彼女は、こう言ったのだ。
「とりあえずわたし達は休戦且つ共闘といきましょう」
「……え?」
士郎という鳩は豆鉄砲を食った。更にダメ押し。
「早い話、協力して偽者達とバーサーカーを倒さないかってこと」
「お、おお?」
突然の話、且つ、まさか彼女からそのような提案がされるとは思っていなかったので、士郎は思わず返事も出来ずに固まる。
「どう? 駄目かしら」
「あ、いや、その……」
「嫌なの?」
自然な感じに覗き込まれ、急激に心拍数が上昇。
「ちょ、ちょっと近いって、遠坂!」
「じゃあ、早く返事をしなさい」
ピシッと命令口調。しかも似合っていた。
「返事、って」 そんなものは考えるまでもなく決まっていた。 「ああ、こちらとしては寧ろ願ったりだ」
接近による内心の揺れは顔には出さず答える士郎/バレバレだがそこには触れず、再度にこりと笑って見せる凛。
「じゃあ決まりね。これからよろしく」 何の遠慮もなく手を差し出した。
「あ、ああ」 戸惑い/羞恥。二重の意味で鼓動を高鳴らせつつ、その手を握る。
/
あっという間に同盟が決まった為、サーヴァント二名は完全に置いてけぼり。ただ呆然と、士郎達の見守ることしかできていなかった。
「ええと」 伏目がちにセイバーを見上げる。 「何か纏まっちゃったみたいです、ね」
「ええ、まあ」
「あの、こっちでも握手でもしておきましょうか」
ぎろり。
「ご、ごめんなさい! 迷惑ですよね!」
「……別に、怒ってなどいません」
本当は、繰り返しマスターが自分を無視して話を進めるので、ちょっと不満。ただ、シンジに落ち度がないのは瞭然なので、一旦謝罪を入れてから、ゆっくりと手を差し出した。
「貴方には、シロウを救っていただいた恩があります。それを返せないとあれば騎士の名折れ。ええ。こちらも一時休戦としましょう」
不器用な優しさ/気恥ずかしさが見て取れる少女。暗かったシンジの顔にも次第に笑みが咲く。
「はいっ!」
やはり手はゆっくりとしか出ず。しかし最後はガッチリと互いに握り合うのだった。
/
彼らのその様子を、途中から士郎達は見つめていた。寧ろ、凛が。
「ふうん」 何やら深刻顔。 「あのさ、衛宮くん」
「どうした、遠坂」
「あれみてどう思う?」
「どうって……」
視線の先=手を握り合う二人。シンジの方がやや小さく、また幼くも見えるので、或いは兄弟のよう。そんなことを抜きにしても、まず思いつくのは。
「仲、良さそうだな」
「よね」
シンジもぎこちないながら笑っているし、セイバーも見ようによっては微笑んでいるよう。それ以外に彼らを形容する言葉はなかった。
「……わたしはまだ信用されてないみたいなのに」
恨めしそうに呟く彼女に、そんなことかと感想を抱いた士郎/寸でのところで口にはしない。命を狙われた直後だけに、今夜の彼は、危機感知能力が少しだけ上がっていた。
「ま、いいわ。とりあえず今日はこの辺にしておいてあげる」
「どこの女幹部の台詞だよ、それ」
苦笑しつつさらりと流す。分かれ道はとうに来ており、そうやって区切りをつけるつもりだと分かったからだ。
「それじゃあ、明日からはよろしくね、衛宮くん」
「ああ。こちらこそ」
お互いを見据えて頷きあう。そして各々のサーヴァントを呼んだ。
「セイバー、帰るぞ」
「はい。分かりました、シロウ」
何の奇も衒わない呼びかけに、揺れ一つない素直な返答。
「帰るわよ、シンジ」
こちらも呼びかけは余り変わらず。
「はいっ。あの、お疲れ様です。士郎さん、セイバーさん」
シンジだけは、一度士郎達に向き直ってから、一礼をして見せた。
そうして彼らは分かれた。この後セイバーを除く全員が、帰宅するなり寝床に突っ伏したのは、単なる余談。
また、士郎が極限の睡魔と闘いつつ、セイバーとの同室を何とか回避――――隣の部屋なので余り距離的にはほぼ変わらず――――したのも、大いなる余談である。
***
再び話が動き出すのは翌朝。衛宮宅が新たな住人を迎えると同時に、一つの存在を欠いたことが判明した時だった。
「セイバー! いたか!?」
「いえ、こちらには。他の場所はどうですか?」
「いや、もうあらかた探した」
悔しさで、士郎はぎゅうと唇をかみ締めた。
今、彼らが探しているのは、そしていなくなったのは、あの少し小憎たらしく、それでも愛らしい自動人形――――藍。
彼女は動けないはずであった。だが、存在した痕跡すらまるで残っていない。朝もやのように彼女は消えた。
「シロウ。少し落ち着きましょう」
「あんなボロボロの状態で藍がいなくなったんだ。落ち着いていられるわけがないっ」
過剰な焦りを感じ、セイバーが窘めるも、今の彼には全く届かない。
「ですが、夜に誰か来た様子はありません。わたし自身は魔術師ではないので確実ではありませんが、少なくともこの家は侵入を受ければ、それを感知できます」
「どうしてそんなことが……」
分かるのか、と続けることは出来なかった。言い合っている彼らの元へ、一つの足音が近づいてきたからだ。
この家に今いるのは、士郎とセイバー。そしてもう一人だけ。
「ま、まずい!」
頭の血も一気に下がり、彼は別の意味で慌てだした。
「昨晩の女性ですか」
「そういうこと! あー、ええっと。と、とりあえずセイバーは道場の方にでも隠れててくれないか? 今見つかると色々と面倒だし……」
両手を合わせ、心底すまないといった顔をする彼に、セイバーは嫌な顔一つ見せない。
「分かっています。では、後ほど」
「ああ、悪いな。後で呼びに行くよ」
場所が丁度庭に面した廊下であったのが幸いし、セイバーはそのまま道場へと駆け出した。
そして士郎も、すぐに歩き出す/万が一にも彼女の姿を見られぬように、自分から足音の主に近づくため。鼓動の高鳴りは、この際無視するしかない。
そして、とうとうその相手に出会った。
「お、おはよう、藤ねえ」
「……あれ。何で士郎がいるの?」
心臓が一際胸を叩く。
「えーっと、それはだな」
大河の眉が顰められ、その手が上がった。 「待った」
「お、おう」
「んー……」
士郎の緊張などどこ吹く風。彼女は自己の思念に没頭し始めた。
唸る。ひたすら唸り続ける。そして。
「あ、思い出した! そっか、昨日遅くなったから士郎の家に泊まったんだ」
それを聞き、士郎は胸を撫で下ろした。その記憶は凛が昨夜書き換えたもの。それに大河が不信感を抱いていないようだと確認ができたからだ。
「よし、オッケー。じゃあ改めて、おはよう士郎~」
「ああ、おはよう」
今度はスムーズに挨拶が出た。
「さっき誰かと話してなかった?」 またどきりとさせる質問がされたが、
「いや、ちょっと寒かったから、声を出しつつ体を動かしてたところだ」 嘘をついてさらりと流した。
「ふうん」
彼女も納得したらしく、もう突っ込んでは来ない/代わりに彼女のお腹の虫が活動を始めた。
「うう。お腹すいたよ~、士郎」
「ああ、でも待ってくれないか、今は……」
微かな違和感/疑問。大河の態度が、余りにもいつもと変わらなさ過ぎないか? 彼女は昨日、藍の変わり果てた姿を最も早く見た筈ではないか。
もちろん説明はつく。それは昨晩の記憶がないせいだ。或いは、このまま黙っておけば、藍が傷ついたことを彼女は知らないまま過ごせるかもしれない。
士郎の喉を、唾の塊が滑り落ちた。
「なあ、藤ねえ」
「なに~?」
「藍のこと、なんだが……」
それでも、彼はその選択肢を端から捨てることにした。
確かに一時は誤魔化せるかもしれない。しかし藍とは、家族のように接していたのだ。家族の一大事を黙っておくわけにはいかない/彼は敢えて彼女の名前を口にした。
「今日起きたらどこにもいないんだ。一緒に探してくれ」
正直に話せば突っかかってくるのが容易に予想されたので、出来るだけ早口で捲くし立てる。
「…………」
「……?」
しかし彼女の反応はまるで異なった。ぽかんと口を半開きにして、何も反応を返さなかったのだ。
「藤ねえ?」
「ちょっと待って」
またもや唸り、今度は額に指まで当てて考え出す。
士郎の不安が、降雨寸前の積乱雲のように膨らんでいく。止め処なく、果てしなく。そして、それは最悪の形で的中を見せた。
「ねえねえ、士郎? 藍、って誰?」
「なっ」
口の中が、あっという間に乾く。聞き間違えであることを期待し、もう一度問いただす。
「藤ねえ、今のは冗談……だよな?」
「え~、だって聞いたことないよ? 士郎の友達だったら知ってる筈なんだけど」
「そんな……ばかな、ことが」
信じられない真実。同時に、疑いの余地はもうなかった。
これが、違和感の正体。大河は昨夜の記憶をなくしただけではなかった。そんなもの、あろうがなかろうが、いつもの彼女なら既に藍のことを聞いている。今朝はそれがないからおかしかったのだ。
そして、そうしなかった/できなかった訳=彼女は藍のことを覚えていない。
藍という存在は、物理的にこの家から消えただけではなかった。藤村大河の中から、その思い出ごと消えてしまったのだ。
それを、士郎は理解してしまった。
「…………――――!」
からからの喉で、無理やりに空気を飲む。そうでもしなければ息を吸えなかった。
「――――ぁ」
地面が揺れる。建物も。大河も。確かなものなど何もない。地震ではなかった。揺れているのは、士郎自身。
「ちょ、ちょっと士郎。大丈夫?! 顔色凄く悪いよ!」
返事など返せない。違う。これは世界が間違っている。こんなおかしなことがあってはならない。どうしてこうなってしまったのか、すぐに答えを探さねばならない。
「……藤、ねえ。ごめん。朝飯はどうにかしてくれ」
「あ、ええ? もう、今はそんなことどうでもいいわよ!」
確かにそうだ。どうでもいい。今は、それよりも究明すべき謎がある。それと。
「電話、鳴ってる。代わりに出てくれないか?」
「だ、大丈夫なの? 士郎は」
「ああ」 だから取りに行ってくれと目で促す。
「う~。……じゃあ、部屋でじっとしてて!」
士郎と電話のある方向の間で、視線をきょろきょろさせる。それでも、やがて間に合わなくなると見るや一言残し駆け出した。
「部屋でじっとしてて、か」
大河を見送り、ようやく現実感の戻ってきた足で廊下を踏みしめた。
「してられるわけ、ないよな」
頭の中に浮かぶのは、昨晩同盟を結んだ魔術師の少女。大河の記憶を操作した彼女なら、何か知っているかもしれない。この後の彼の行動は、既に決まっていた。
/
「じゃあ士郎。無理しないで、ちゃんと部屋で休んでてよ!」
「ああ、分かってる。何度も言うなって」
先の電話は、大河の実家からのものだった。しかも彼女への用だったらしく、都合は逆によかった。
ただそちらは頼まれた言付けを伝えてきただけ。実際に用があったのは彼女と士郎の学校/私立穂群原学園だった。
すぐさま学校へと折り返しの電話を掛けた彼女は、一体何を聞かされたか、厳しい表情へと一変。慌ててここを出ると言い出した。
もちろん士郎が心配であることに変わりはない。だが、学校の用事はそれにもまして重要なものだと、焦った彼女が示していた。
「行ってきます!」
「ああ、行って……って、もういないか」
再度大河を見送った士郎は、行動を開始する。
まずは道場のセイバーを迎えに。そして彼女の格好がそのままでは色々と拙いので、取り合えず無地の白いTシャツとジーンズを着て貰う。
念のため遠坂宅にも電話。案の定というか、電話口に出たのはシンジだった。凛はまだ眠っているとのことだったが、到着までには準備をさせておいて欲しいと言付け、会話を終える。
思ったより時間が掛かったが、そこでやっと二人は家を後にしたのだった。
/
「と言う事なんだが」
「そう言われてもね。わたしにも心当たりはないし」
一口紅茶を啜る。 「もちろんそんなことしてないわよ、わたしは」
「ああ。こっちだってそんなことは考えてない」
凛は頷いて、士郎とセイバーの両方に目配せをした。
「一応確認するわね。侵入者はいなかったのよね?」
「はい、いませんでした」
「それで、あの子は動ける状態じゃないのに消えた」
頷く士郎。 「遠坂も見てたから分かると思う」
「ええ。――――で更に問題が、藤村先生から昨夜のことだけじゃなくて、あの子に関する記憶が全て消えている、と」
魔術師の、それもサーヴァントを連れた魔術師の家に忍び込み、人形一体の身柄と人一人の記憶を奪うなど、普通に考えて不可能だ。
「しかも藍の体の欠片一つなかった。割と細かいものが散っていたにも関わらずだ」
「記憶も、あの人形のことに限定されていることから、まず薬などによるものではないでしょう」
「となると、恐らくは魔術師かサーヴァントの仕業、か」
カップを傾けるが、期待した熱も味もすでにない。空になっていたそれをソーサーに戻すと、すかさずシンジが淹れ直した。
「……だけど不思議ですね。セイバーさんに気付かれずにそんなことをやってのけるなんて。まるで」
シンジは不意に口を噤んだ。内容が、この場に相応しくないと思ったのだ。
「まるで? いいよ。気にしないから続きを言ってくれ」
「え、と」 やや逡巡してから。 「――――マジックみたいだな、って」
士郎はその言葉を聞き、取り上げたカップを宙で止めた。怒っているのではなかった。その表情は、どうしてそれに気づかなかったのかという驚きに彩られていた。
「シンジ、それだ!」
「え? え?」
それって? と自分の背後を見たり、おどおどし始めるシンジ。
「マジックだよ! そうだ。何で思いつかなかったんだろ」
一人だけ納得して叫びだした士郎を、凛とセイバーは、奇妙なものを見るような目で見た。
「あのね、士郎。どういうことかちゃんと話してくれないと、こっちには全然意味が分からないんだけど」
「ええ、リンの言うとおりです」
片方は笑っていたが薄く血管が浮いているよう/もう片方は冷気を纏っていた。
「し、士郎さん……!」 いつの間にか士郎の後ろに回り、シンジが小声で突っついた。
「あ、ああ。分かってる。今から説明する」
とりあえず敵ばかりでないことに内心安堵しつつ、士郎はある話を始めた。
「まあ、そんなにする話はないんだけどな。藍は俺が作ったわけじゃないってのは、昨日言ったよな?」
「ええ。そういえばそんなことも言ってたわね」
「それも、赤の他人がどうと語っていたと記憶しています」
そうそうと士郎は頷く。 「俺が藍と出会ったのは、商店街でのある出来事が発端だったんだ」
「商店街って……」 魔術的な意味があるのだろうかと一応考えるシンジ/何も浮かばない。 「あの、食べ物とかを買ったりする商店街、ですか?」
「そうさ」
「ちょ、ちょっと待って。まさか、魔術師がそんな往来で何かしてたっていうの?!」
凛が血相を変えるのも無理はなかった。魔術は隠匿されるもの。最低でも、表の住人の目に去らされることなどあってはならないのだ。
しかし士郎は苦笑すら浮かんだ顔で。 「魔術師かどうかは知らないけど、藍をくれたのは、商店街で手品をして見せてた道化師だったよ」
「は?」 「え?」
「……シロウ、済みませんが聞き間違えたようです。もう一度お願いできますか?」
ぽかんとなる凛とシンジ。セイバーに至っては、頭痛を感じているような表情で、再現を申し込んできた。
「いや、多分聞き間違えてない。俺に藍を与えてくれたのは、手品を見せてた道化師達だ」
今度は、しばらく静寂が流れた。
「じ、じゃあ何? 手品をしてたから、消すときも手品でってわけ?」
「ああ」
大真面目な顔で、彼は言い切った。
「シロウ、幾らなんでもそれは……」
「ないとは言い切れないさ」
苦言を呈するセイバーにも彼は負けない。
「その理由、聞かせてもらえる?」
「藍は、手品を手伝ったお礼に渡されたものなんだ。だけど、実際にその場で渡されたのは――――これだけだ」
懐から、藍の発条を巻くための鍵だ。
「だけど、家に帰ると既に藍がそこにいた。もちろん家なんて教えてないのにな」
「誰かに聞いたんじゃないの?」
そうかもしれないと頷き。 「そうだったとしても鍵の掛かった家で、しかも的確に俺の部屋にどうやって置くんだ?」
「……なるほど」
まだ疑念の全てが払拭されたわけではないが、そこまでするなら尋常の相手とは考えにくかった。
「では、まずはその道化師達とやらを探すと?」
「そういうことになるな」
「その、会えるんですか?」
シンジの質問に、士郎は顔を曇らせた。
「それは、分からない。実際、その時以来商店街で見かけたことないからな」
ぎゅうと鍵を握り締めた。 「だけど、やらなきゃ始まらない。どんな手を使っても見つけてやるさ」
そこで、右手を軽く握りこんで口元にやっていた凛は、熱くなっている士郎を見て、あることを思いついた。
「いえ、多分すぐに見つかるはずよ」
即座に反応。 「どうしてそんなことが言えるんだ?」
「だって、あの子を士郎に与えたことには、何らかの意味があるはずだもの。わざわざ回収したってことは、それを探してくるに違いないあんたに、きっと何かさせたがってるんだわ」
「ああ。確かに。それならば説明がつきます」
その予想にセイバーも頷いた。士郎は不満げである。
「そんな悪い人達には見えなかったんだが……」
「それは自分で見てから判断するわ」 ばっさりと切り捨てる。 「……まあ、道化師なんて奴らが見た目で判断できるなんて思わないけど」 意外と内心は自信がない。
しかし、これで一応話は纏まった。
「うっし」
一息に紅茶を飲み干すと、士郎は立ち上がった。
「紅茶、ありがとなシンジ」
「いえ。もう、行くんですか?」
「ああ。待っているにしろそうでないにしろ、早い方がいい」
凛にも礼を述べ、歩き出したところで声を掛けられた。
「ちょっと。置いて行くつもり?」
「え?」
振り向くと、腕を組みこちらを睨んでいる凛と目が合った。
「いや、だって。遠坂達は」
「関係ないとか言わないでよね。一時的とはいえ協力関係にあるんだから」
そしてシンジに、コートを取ってくるように指示を出す。
「探し物をするなら、人手はあった方がいいでしょ」
「そりゃそうだが……でも、良いのか?」
「良いのよ」 もう片方の人物にも目をやって。 「セイバーも構わないでしょ?」
「ええ。その方が助かります」
そこで戻ってきたシンジから赤いコートを受け取り、凛はそれを羽織った。
「さ。行くわよ」
いつの間にか物事の中心人物のようになっている凛。それに気付いた士郎は、知らず知らずの内に、この日初めての微笑みを浮かべていた。
そして、呟く。 ――――ああ、らしいな、と。
***
時は一足飛びの数時間後。
「……まあ、しかし、あれだな」
「何よ」
ピクリとも動かない表情が逆に怖い。
「いや。すぐに見つかるなんて思ってなかったから、気にするなって」
「うう~! それもそれで、何か腹立つ」
分からないではなかった。あれだけ見得を切っておきながら、結局商店街では何の手掛かりも掴むことはできなかったのだ。
「しかし妙ですね。リンの話は間違っていないように思ったのですが」
「ごめんセイバー。もう追い打ちになっちゃうから、その話はなかったことに」
「はあ」
凛も、セイバーに対してははっきりと落ち込みの気持ちを露にした。
「でも、これじゃあ本当に、どうして藍さんがいなくなったのか分かりませんよ」
「シ~ン~ジ~? 言うなって言ってるでしょーが!」
シンジの両側頭部を拳でぐりぐり。 「いたっ! 痛いですよ、遠坂さん!」
涙目のシンジ/どことなく楽しそうな凛。典型的ないじめられっ子といじめっ子の図。
「遠坂。やめてあげろって」
止めに入るシロウだが、その内心は複雑だった。勝手に思い起こされる、生徒会長の言葉。
「……つーか、本当に猫被ってたんだなあ」
「何よ今更。そうよ、いい子ぶってたわよ。悪い?」
何なら衛宮君にもしてあげましょうかこれ、とやたらいい笑顔でジェスチャーを見せる彼女に、全力で拒否の態度を露にする。
「それはごめん被る。後、気を悪くしたなら謝るよ」
「ふうん。……でもまあ、気を悪くしたってなら士郎の方でしょう? わたしの正体がこんなんで」
「いや、全然」 こちらもきっぱり否定。 「どちらかというと、今の方が生き生きしてていいと思うし」
うんうんと勝手に納得しながら、さらりと告げられた言葉に、凛と何故かシンジも仄かに頬を染めた。
「……ねえ、あれって素よね? 天然って奴?」
「た、多分」
こそこそと後ろを向いて話し合う凛とシンジに、内容も聞こえなかったので士郎はただ首を傾げるだけだった。
「何話しているか知らないけど、とりあえず中入ったらどうだ?」
一旦戻って方針を立て直そうと、衛宮宅に足を向けていた面々。しかし、いつの間にやら到着済みであったので、士郎がそう声を掛け、扉を開けようとした。
「――――待って下さい」
「セイバー?」
それを止めたのは、緊迫した表情のセイバー。
「何か、物音が聞こえませんか?」
言われて耳を澄ます――――聞こえた。ちゃらちゃらと鳴る金属音。 「中庭の方だ」
「わたしが先行します。後からついてきて下さい」
言うが早いか、セイバーは音の発生源へと駆け出した。士郎達もそれに倣う。
「行くぞ」
「ええ。シンジ!」
「はいっ!」
雪崩れ込むように中庭へと足を踏み入れる。
果たしてそこにいたのは。
「……へ、あれ? ピエロ?」
声は素っ頓狂。だが内容に間違いはなく、いたのはピエロだった。
幾つ物金属の輪を宙に飛ばし、互いの間で器用に交換する、大玉に乗った二人の道化師がそこにいた。
赤、黄色、青の原色やら金銀で彩られる華やかな衣装に、オウグストと呼ばれる目と口の周りが白いクラウンスタイル。二股に分かれた赤い帽子の先では、布がヒラヒラと揺れていた。
「……あの、これは一体どういうことでしょう」
「わたしに聞かないでよ」
背景はただの庭と、日本家屋だけにピエロ達の姿は非常に浮く。余りにもシュールな光景だった。
「! おのれ、ここで一体何を」
「ま、待ったセイバー!」
気を取り直し、そのまま見えない剣で斬りかかろうとするセイバーを、士郎は必死で引き止める。
「しかしシロウ!」
「違うって! あいつらなんだ! 藍をくれた道化師達は!」
その声が合図だったか。全ての輪を両腕に通して受け取った道化師達は、大玉から器用に降り立った。そして右手は胸の前に、左手は腰に回し、頭が地面につきかねないほど大仰な一礼。
「先日に続き、またまた見えます、衛宮の方」 「再会麗しく存じ上げます、衛宮様」
「あ、ああ」
言葉まで仰々しい道化師達。殆どの者は、思わず動きを止めてその所作に見入ってしまう。
「さてもはてもお困りですね」 「恐らくいずれか悩み事がありますね」
道化師達が、鏡合わせの所作で手を返すと、両腕に嵌っていた金属の輪が全て小さなボールへと変化した。そしてジャグリングを再開。
「うわ、全然分からなかった……」
「そう、それが手品ってわけ」
純粋に驚き、やや楽しみすら覚えたのはシンジだけ。凛もセイバーも目つき鋭く、その道化師達を睨みつけていた。
一歩踏み出す士郎。
「ああ、悩んでいる。だから聞いてくれ」
「それはできません」 「無理な相談です」
即座に却下。
「な!? ま、真面目な話なんだ!」
「それでもです」 「変わりません」
勢い込んでも、道化師達は動じない。小さな球を全て高く放り上げ、ダンスでも踊るように互いの手を取り合う。そして指銃の先で士郎達を指差した。
「必要なことはそこに」 「それがあれば十全」
「一体何のこと……」
目線を下げ、それぞれが一様に驚いた。知らぬ間に、自分の手に手紙入りの封筒を握らされていたからだ。
「……あれ?」
ぽつんと呟いたシンジのお陰で、皆の顔が再び上がる。そしてあることに気付く。
「どうした、シン……あ!」
「しまった!」
封筒に一瞬目をやったその一瞬の隙。道化師達は大玉ごと姿を消していたのだ。魔術でもこうはいかないという見事さで。
吹く一陣の北風。寂しく枯葉が舞う。
「やられた」 その一言が全てだった。 「狐に抓まれたってこういうことかしらね」
「あれって、魔ほ――――魔術だったんですか?」
凛は首を横に振った。 「まず違う。全然魔力が感じられなかったもの」
「しかし、手品だとしたら恐ろしく巧妙だ。わたしも全く見破れなかった」
声に悔しさを滲ませるセイバー。
だが、そのマスターはというと、焦りの手つきで手紙の封を切っていた。何らかの魔術的な小細工がされている可能性もあり、凛やセイバーはどきりとする/幸い爆発するなどはなかったが。
しかし内容は、ある意味でとんでもなかった。
「……何だこれ」
「何が書いてあるの士郎?」
自分の手の物は、開封を後回し/内容を尋ねる。
「招待状だ、これ」
頭痛を抑えるように、目の辺りを揉む凛。 「それで、何ですって」
「だから招待状だって」
「確かに。どこかの船で行われるパーティーの招待状となっていますね」
今度は、倒れそうになった/倒れないが。いい加減にしろ、聖杯戦争だぞ、と意味不明の怒りが己の裡に発生しているのを凛は感じた。
それでも何とか怒りを抑え、他の情報を求める。
「で。藍のことは書いてあるの?」
「いや、それは――――待った。後ろに書き足しがある」
何気なくひっくり返すと、表の文面とはまるで違った文字が。お世辞にも綺麗とは言い難いそれで、『お人形を返して欲しいなら来い』と、書かれていた。
読み上げた士郎は、二組の視線がこっちを伺っていることに気付いた。
「罠ですね」
「罠よ」
「……幾ら俺でもそれぐらいは分かるって」 心外だなと愚痴る。 「でも、放っておくわけにはいかないってのも確かだ」
「そりゃまあそうでしょうけど……」
不満をありありと顔に表す凛。
「それに遠坂だって、あいつらが何か俺にさせたがっているって言ってたじゃないか」
「だからって、それについていけとは誰も言ってないわよ」
「む」
思い返す。確かにそれは言ってなかった。
そこでまた士郎が何事か言い返そうとしたところで、セイバーが先に声を上げた。
「取り合えず、新しい情報は手に入ったわけですから。どうでしょう、一度家で暖を取りつつ考えるというのは?」
提案とほぼ同時期。誰もが体の震えを自覚した。
「そうだな。そうしよう」
「賛成」
思えば、ずっとこの冬空の元を歩いていたのだから、体が冷えるのは至極当然だった。
「じゃあ、続きは家の中でってことで」
言って、先に部屋の支度をすべく、士郎は玄関へと再び足を向けた。