―――Side Shiro Emiya―――

 薄闇の中。

 黄昏時を過ぎた時刻。

 衛宮士郎は、その中を走っていた。

 急ぎ、焦り、歯を食い縛って、ただひたすらに走り続ける。 

 だが。だがしかし、その周囲には先ほどまでいた小さな、彼の股下にも満たぬ程小さな人形の姿はない。

 何故か。二人、というのは正確ではないかもしれないが、兎も角共にいた所を青い男に急襲されたのだ。なのに、どうして彼は今一人で 走っているのか。

 答えはいたって単純だ。彼女は今、衛宮士郎に迫りくる青き死を、その身をもって受け止めているのである。だから、この場にいない。

 しかし、依然疑問は残る。この衛宮士郎という男が、『正義の味方』を目指す彼が、いち人形とはいえ他の何かを犠牲に生き延びようとす るのだろうか? 

 否。藍を見捨てたのではない。彼は目的を持って、一時的に戦線離脱を図ったに過ぎない。 

 大体において、魔術師でありながら殆ど成功しない強化魔術しか持たない彼など、ただの高校生と大差ない。そんな者が、素手であの青き 化け物に挑むのは神 風特攻にすらならない。それこそ、火に飛び込む虫のように、抵抗など許されずに死ぬ。 

 小さくも、誇り高き人形は、そんな愚行を許さなかったのだ。

『いいですか。土蔵に、こいつを倒せる武器を置いてきたのです』

 ここは自分が食い止めるから、その間にそれを取って来てくれと。自分なら、あの男相手でも何とか持たせられるから。武器を取ってきて それで止めを刺せ と。藍は士郎にそう言ったのだ。

 士郎とて彼女を置いていくことに葛藤がなかった訳ではない。寧ろ、ありすぎるほどにあった。 

 そもそも彼女が言う、自分なら持ちこたえられるとは一体どのような理由から出た言葉なのか。戦うにしても、藍一人に任せるわけにはい けないと、士郎は彼 女と共に青い男と相対しようとした。 

 対し、藍は士郎に明確な拒絶を表した。状況は抜き差しならない。二人でただ戦ってもいずれ死ぬ。だから二人とも生き延びるには、苦し かろうと信じられな かろうと、それでも自分を信じて行って欲しいといった。 

 その言葉の間、彼女は一切振り返らなかった。いや、無駄な動きをすれば、死んでしまうことが分かっているから出来ないというのが正し いか。 

 ……儚く小さなその背中に何を見出したか。士郎は単独での一時撤退を決めた。 

 すぐに戻ると叫び、心に大きなしこりを残しつ、彼は自宅目掛けて駆け出した。

 当然、青い男がそれを見逃す筈も なかったが、死の槍はどれだけ経てど、彼に襲い掛かることはなかった。それは藍が、彼女が確かに士郎の死を止められるという証拠であった。& nbsp;

 どうやって止めているかは分からない。士郎は一切振り返らなかったからだ。だが、金属が打ち合っているような音から、恐らく何らかの 武器で攻撃を止めて いるのだろうと思った。 

 最後に士郎がその場を立ち去る前、攻撃を凌き続ける激音が響く中、士郎の耳に届く声があった。

『ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!』 

 藍の声に少し似ていて、それでいながら少し違う。大胆で不敵、且つ、不気味な高笑い。 

 それを聞いても士郎は振り向かなかった。藍を壊させるわけには行かなかったが故に、彼は振り返らず必死で急いだ。& nbsp;

 彼が家に辿り着くまでは、今暫くの時間が必要である――――。

―――Side "Lancer" vs "Ai & Bennie"――― 

 青色と桃色の打ち合い。青き男が持つのは、真紅の魔槍。闇夜を切り裂き続ける赤の線は、桃色の人形を少しずつ、しかし確実に削り取っ ていた。

 対するは桃色の人形。かの人形が持つのは、その身の丈にまるで合わない、無骨で凶悪な大鋏。

 鋏といっても、手に持って紙を切る鋏を単純に大きくしたとか いう、生易しい物ではない。どちらかといえば、ペンチの先に爪切り鋏の刃先を付け足したような、奇妙な鋏だった。

 そのため全体的な大きさに比べ、刃の部分 は極端に少ない。持ち手と逆の先に僅かな平面があるだけだ。或いはただの鈍器としての使用にこそ向いているかもしれなかった。

 それにしても、鋏は大き過ぎた。柄を広げれば、人形の手を目一杯伸ばしても足らない間が開く。そのままでは使えないことを分かってい るのだろう。隙間を 補うために、鋏の間には糸が通されていた。更に糸の中間付近には持ち手が付けられており、それを掴んで糸を引き寄せたり、或いは伸ばしたりといった動作が 出来るようであった。 

 糸を伸ばせば刃先は開く、糸を引けば刃先は閉じる。尤も刃先を閉じるのは、閉じきった時に先端に生まれる平面で、盾のように槍を受け 止める為で、攻撃の 為では決してなかった。

 当然、状況は人形にとってとても拙い。寧ろ、鈍器のような大鋏で、サーヴァント最速の一位二位を争うランサーの攻撃を、辛くも受け続 けられるという のが、異常な事態でしかなかった。 

 流石のランサーも、驚いたと軽く口笛を吹いた。

「――ハ。初見では大したことがないと思ったが……中々どうして。意外とやる」

「アア、アア、コッチモ意外ダゼ。手前サマ如キデ、サーヴァントヲ留メラレルトハナ」

 キリキリと体から音を立て、小さく笑ってから人形も応えた。だがその声は、藍の物とは違っていた。そもそも、彼女は口をピクリとも動 かしていなかった。まる で腹話術のように、口を動かすことなく話していた。今の藍は、表情の全てが凍結しており、まるで本当にただの人形に戻ったように、ただひたすらの無表情で ランサーを見ていた。

「さっき、あの男が逃げ出した直後だな。あの後の笑いの後だ。テメェの雰囲気が変わったのは。――解せねえ。テメェは本当にさっきまで と同じ奴か?」

「ゲッゲッゲ! 鋭イ! 鋭イネェ! イカスゼアンタ! ダガ残念、答エル必要ガナイネエ。チンタラシテタラ、デァ・ガッテガ戻ッテ来 チマウ」

 藍の姿をした、藍以外の『何か』の言葉でランサーは確信した。それは何ら驚くこともない、至極当然の事実だ。だが、彼はわざわざ次の 槍を繰り出す前に、 それを口にした。

「やっぱりな。貴様の言った俺を倒せる『切り札』とやらは、嘘だな?」

「サァテ、ドウカナ」

 攻撃の前動作か、人形は肩に大鋏を担ぎ上げた。

「本当カモシレナイシ、嘘カモシレナイ。ドッチダト思ウ?」

 表情を表していたなら、それは随分と凶悪なものだっただろう。だが、ランサーはまるで意に介さず、ふんと鼻で笑い飛ばした。

「『切り札』は、ない。となると、そもそも貴様の目的は、俺を倒すことではない。奴を、あの男を逃がす為だけにそのベクトルを向けたん だな?――は、全 く大した忠誠心だ」

「ゲッゲッゲ。阿呆! 『解』ハ、モウ一ツ有ルンダゼ!」 

「なに?」

 キリキリキリと、発条が軋む様な音を立てて、人形は鋏を振り上げた。そして、高らかに言い放った。

「手前サマダケデ、倒セネェト言ウナラ! テメェヲ、他ノマスターニ擦リ付ケリャアイイ! 思イ付キモシナカッタカヨ、間抜ケッ!」

 そうだ。衛宮士郎と、遠坂凛が合流する前から、藍は士郎の行動を見ていた。

 いや、正確には朝からずっと追いかけていた。自分との約束をたがえる彼の姿を、何も言わず遠くから眺めていた。誰もいないその時に現 れて言えばよかった ものを、敢えて藍は何も言わなかったのだ。

 だから、凛との帰宅となった時に敢えて、二人の前に姿を表した理由はたった一つ。

「――貴様、まさか他のマスターを…!」

「ゴ名答! セーカイダ! サア、イツ来ルカナ!? ドコカラ来ルカナ!? 発条ガ切レルマデ、全身全霊ヲ掛ケテ、相手シテヤル ヨ!!」

 どれだけ挑発的な科白を吐いても、表情が動かない人形は、余りにも不気味だった。そして、怯むどころか更に誘うその姿に、さしものラ ンサーも警戒心を覚 え始める。

 本当に切り札があるのか?或いは、何かを隠し持っているのか? ――思いは行動に表れた。ランサーは更に隙のない構えを取り、あらゆ る状況に対し即座に行 動を取れるように、緊張感を高める。

 ……だが、自信ありげに言を紡ぐ人形こそが、一番よく理解していた。もはや、どうしようもない程についてしまっている戦力彼我比を、 御伽噺のように引っ 繰り返すなど、どうやってもありえないということを、とても正確に分かっていた。

 何がどうなり、自分にあらゆる好転が向いたとしても、一対一では確実に負ける。絶望的に自分は弱すぎて、最悪なほど相手は強過ぎる。 一つ間違えば、あっ という間にゴミ屑のように蹂躙されてジ・エンドだ。それが現実。絶対的な真実。

 彼女には見えていたのだ。未来を見通す眼など無くとも、何れは木っ端のように微塵に帰す自分の姿が見えていた。

だからこそ ( ・・・・・ ) 。 

 だからこそ、引けない。ここで引くわけにはいかない。自分でも敵わない相手が、戦う手段も、準備も覚悟もない デア・ガッテ(衛宮士郎)を襲うなんて事を、その身に課せられた存在意義が、許すわけが ないのだ。

 強がりだだった。これは人間で言う強がりに過ぎない。それでも少しでも時間を引き延ばせるならと、彼女は吼えた。

「ヤアヤア! コノ手前サマヲ、『アイ&ベニー』ヲ! 制限時間内ニ、壊シ切レルカヨ亡霊サン!?」

「――いいだろう、手加減はなしだ。テメェも、あの男も、纏めて 葬送 ( おく ) ってやる…!」

 ランサーの顔付きが変わる。先程よりも攻撃は激しくなるに違いない。 藍と紅(アイ&ベニー)がここから逃げられる確率は、すでに0極限だ。

 それでも彼女らは構わなかった。

 例え逃げられなくても。

 そしてジャンクにされてしまっても。

 それでも、主人を守れたならいいと。とうに心で決めていたから。

 ゆこう。死地に赴こう。削れるのは鎬ではなく我が身。だが、削れる分だけ延びる命があるなら、幾らでも、好きなだけ持っていけ。

 髪頭額左眼右眼鼻左耳右耳左頬右頬口喉項左肩右肩左腕右腕左手右手胸腹腰左脚右脚――全て全て全て。持っていけ持っていけ、どれでも全部持っていけ。但 し、己が主人の命と交換だ。

 やらせはしない。衛宮士郎は守りきる。それが発条を巻き、宿と飯を与えてくれた彼に対する奉公だった。

――Side Rin Tohsaka & Shinji Ikari―――

 慌しく帰宅したこの邸宅の主人を、碇シンジは不思議そうな眼で見つめていた。

「あの…何かあったんですか?」

 邸宅の主人こと遠坂凛は答えない、というより答えられない。肩で息をするほどに、完全に息が乱れているのだから当然だ。

 なら取り敢えずと、シンジ は水を一杯入れて彼女の前に運ぶ。

「ありが……とっ――!」

 言うが早いか、凛はあっという間に水を飲み干した。水を運ぶ間の時間もあって、段々と息も落ち着いてきているようだった。

「それで…」

 どうしましたか、と続くはずの言葉は強制的に打ち切られた。あれよあれよという間に、凛に手を取られ引き摺られ始めたのだ。

「え?あ、ちょっと!何処にいくんですか!遠坂さん!」

「敵よ」

 シンジの問いかけに対する凛の答えは、これ以上ないほどに簡潔なものであったが、逆に簡潔すぎるがゆえ真意を掴みかねた。暫くの間、ずりずりと引っ張ら れてから、漸くシンジの脳はその意味を理解した。

「敵ってまさか――」

「今は聖杯戦争中よ。サーヴァントに決まっているでしょ」

「やっぱり! あ、あの……ま、待って下さいッ!」

 既に玄関近くまで来ていたが、これ以上引き摺られてたまるものかと、シンジはブレーキをかけた。振り返った凛の睨みにやや怯みそうになるが、それでも言 うべきことを言うべく口を開いた。

「あ……あの……ええと、その」

「あなた戦うって言ったでしょう?」

「それは…そう、なんですけど」

 だったら、とまた引き始めようとする凛を、お願いだからもう少し聞いてくださいとシンジは引き止める。

「まだ…その、心構えが…」

「なら、着くまでに済ませておいて」

 にべもない言葉にシンジは挫けかけるが、それでもやはり、まだ連れて行かれる訳にはいかないと引き留まった。段々と凛のイライラが大きくなっていくのを 感じはしている。

 しかし、彼のような者が昨日の今日で、いつでもどこでも戦闘OK、という気持ちになれている筈もないのだ。そして、何も言わないとそのま ま連れて行かれるという恐怖心から、ついうっかり考え無しの一言を言ってしまった。

「あ、あの……ッ! その敵って、僕が戦わないといけないんですか!?」

 深く考えた言葉ではない。だが、出来るなら他の人に戦って欲しいという、卑怯ながらある意味当然の感情から出た言葉だ。ただこの時ばかりは、意外と凛の 動揺を誘うことが出来た。

「何言っ……」

 激昂しかけた直後、あれ?と凛は首を傾げた。

 確かに聖杯戦争は勝ち抜きたいし、その為には戦わなければならない。だが、折角他の相手が潰しあってくれるなら――どちらかが潰れるのを待っても良いの ではないか?

 シンジの力も少しは分かってきたが、それは本当にあくまで少しだけ。たった一つ、サーヴァントの攻撃すら防ぐ障壁を張れるという事が明らかになったに 過ぎない。ならば、ここは迂闊に動かない方が良いのではないか?

 だが、そこまで分かっていながら何故か、凛は戻らないという選択肢を中々選べなかった。

 一方、急に黙り込んだ凛を見て、シンジは自分が失言したと思い込んだ。そして、どうして悪いのか、本当に悪いのは自分なのか、そんなことを考えるまもな く、彼は謝っていた。

「ご、ごめんなさい……僕が言ったこと、おかしいですよね」

 しかし、彼の予想に反して凛の口から出たのは、先の彼の言葉を肯定するものだった。

「ううん、それは違うわ。確かにあなたの言う通りかもしれない。ここは待った方が得策だわ」

 その内容に一瞬戸惑うも、シンジは徐々にホッとした顔になっていった。逆に凛は渋い顔だ。自分で言ったことに、自らが納得していないようだった。

「聖杯戦争に勝つ、その為には待った方がいい……」

 何よりも自分自身に言い聞かせるように、一言一言かみ締めつつ凛が呟く。シンジはその様子が気になるようだが、戦わなくて済むという安心からか、口元に 笑みを浮かべて彼女を家中に誘い始めた。

「お腹空いていませんか? 夕飯作り掛けなんですよ、もう少しで出来ますから」

「ええ……」

 まだ葛藤の決着が着いていないような顔つきながら、凛はシンジに付いて居間に向かって歩き出した。

 暗い顔の彼女を励まそうとしてか、或いは戦いのことから思考を逸らすためか、シンジはわざとらしくも明るく振舞った。身振り手振りも交えながら、 彼女に話を投げかける。

「勝手にキッチン使っちゃってすみません。その、料理するのって何だか懐かしい感じで……何か思い出せたら良かったんですけど」

「そう」

「それで、記憶は、あの、全然だったんですけど、料理の方は多分大丈夫です。――その、多分。お口に合うといいんですけど」

「うん」

「外は寒かったでしょう? 体の冷えが取れるように、暖かいものを作りましたから」

「へえ」

「あ、遠坂さんは猫舌……じゃないですよね? なるべく熱くして出したいんですけど」

「ええ…」

 等々。

 暫くは、短くても何らかの反応があった凛だが、次第に何を言っても生返事すら返さなくなった。やや気まずくなった雰囲気にシンジは、居心地が悪そうに下 を向く。そして早く台所に着かないかな、といった感じにエプロンの裾を弄り出す。

 それにしても、白いエプロンで身を包んだシンジは、女性的な幼顔と相まってまるでおさんである。もしあのまま凛が引き摺って行った場合、彼女とシンジの 双方、少し恥ずかしい思いをしただろう。

 ――と、暫く自分の中の鬩ぎ合いに時間を費やしていた彼女がついに動いた。

 台所に向かおうとするシンジの手を、先ほどのようにぎゅっと掴む。

「……え」

「駄目。やっぱり、行かないと駄目」

 シンジはその言葉に眼を見開き、息を詰まらせた。

「ど、どうしてですか」

「漸く分かったの、わたしがずっと迷った訳が。人形よ。そう、あの人形は、私を軽く見ていた」

 あの人形といわれても、どの人形のことかシンジに分かるべくもなかったが、凛は更に続けた。

「まるで『お前なんていてもいなくても同じだ』といわれているみたいだった。――不愉快よ。愉快なわけがない」

「で……でも」

「分かってる。それが心の贅肉だってことは分かってるわ。だけど、行くわ」

「そんなぁ」

 最早凛が心換えすることはないと悟ったシンジは、絶望的な表情を浮かべた。恐らくはもう、大した抵抗もしないだろう。

「……最後に、聞かせてください。今、誰が戦ってるか、知ってるんですよね…?」

「多分ね。片方は知ってるわ」

「その人は…知り合いなんですか?」

 一拍の間が開いた。深く息を吸い込んでから、凛は言った。

「わたしの同級生よ」

 幾重にも絡む複雑な思いを込めて口にされたその言葉を、シンジはどう受け止めたか。――彼はとうとう覚悟を決めた。

「――分かりました、行きます」

「ええ、頼むわ」

 かくして、遠坂ペアの参戦が決定した。

「……待ちなさい、どこに行く気よ」

「え、で、でも、早く火を止めないと火事になっちゃいますから」

 溜息。

「分かった、早く止めてきなさい。ついでにエプロンも脱いで、玄関に来なさい。いいわね?」

「は、はい!」

 ―――Side Shiro Emiya, once again―――

 玄関に灯はなかった。それどころか家の何処にも灯りはない。恐らく誰もいないのだろう。

 好都合だ。士郎はそう思い、すぐに庭側に回った。もし誰かいれば、余計な手間が掛かったところだ。しかし今は、一刻の猶予もない。一秒でも早く、藍の残 した『何か』を手に入れ、そして戻らなければならないのだ。

 間もなく士郎は土蔵の入り口に辿り着いた。普段開きなれている扉も、この時ばかりはもどかしい。

「―――よしッ!」

 急ぎ広げた入り口に飛び込み、士郎は土蔵の中を見渡した。ここは自分のテリトリーだ。毎日見慣れている場所だ。チラッと窺えば、変化に気付ける筈。そも そもそう奥にはあるまいと、手近な所に目をやる。

 しかし、ない。

「……え? ど、何処だ? 一体何処にあるんだ!?」

 手前から奥に、焦りから大した意味もなく手当たり次第に荷を引っくり返していく。それでも何ら変わったものは見つからない。どこにも異変はないのだ。

「ちくしょう、ある筈なんだよ、絶対にっ…!」

 荷を勢いよく動かす度に、別の何かが落ちたり、或いは壊れたりもしていくが構ってはいられない。そんな事は切り札を見つけて、藍を助けて、その後で気に すべきものだからだ。だというのに、一向にその『切り札』は見当たらない。

 士郎の焦燥感が、最高潮に高まっていく。戻るまで間に合わないかもしれないという心配。責任を果たせない自分の不甲斐なさ。緊張のしすぎで、彼の体はガ チガチになってしまう。そして、急ぎすぎて躓き転んでしまった。

 ――――――――――――!

 けたたましい音と共に、積んであった物が崩落する。その激しい音と、幾つかのガラクタが身を打ち痛みを覚えたことで、少しだけ彼は冷静さを取り戻した。

 思い返す。

 ずっと。彼女から話を聞いた時から、思う事があった。 

 疑念は走っても走っても消えず、それどころか大きくなっていった。

 そして、今。こうして家に辿り着き、土蔵を引っくり返すように探って確信した。

「ああ、そうか……藍。切り札は、ない。――そういう事なんだろ」

 口に出してみれば、驚くほどすとんと落ち着いた。この状況で縋れるたった一つの道が絶たれたというのに、それでもこの答え以上に的確なものを見出せそう に無かった。 

「そうだよ、な。そんな都合のいいものなんてあるもんか。……置いていった物があるなら、朝の内に気付いていた」

 しかし、彼が気付くような異変は、朝の内には無かった。この土蔵に入った時もそうだ。朝も今も、ただの一度すら、何も変わったように感じる時など無かっ た。

「ちくしょう、ちくしょう……俺は、本当は俺は分かっていたんだ。そして分かっていて逃げたんだ」

 全て知っていながら逃げ出した。――そんな卑怯者が生き延びて、その陰で誰かが死ぬ。

「――駄目だ。そんなのは、絶対に、駄目だ」

 何故なら、それは間違っているから。あってはならないことだから。

「行こう。助けに行かないと」

 そして愚か者が、最悪の決断を下した。

 士郎はガラクタの中から、武器として使えそうなものを探し始めた。幾らでもあるといえばあるが、持ち運びと取り回しの良さを持っていた鉄棒を何本かチョ イスした。ただ、これでは足りない。そして足りないなら、補うだけだ。

同調開始 ( トレース・オン ) ――――」

 いつもなら時間を掛け、ゆっくりと行っていた魔術行使を、出来る限り時間を短縮して行う。不可能感は感じなかった。死ぬなら死ねばいいと自暴自棄になっ ているからかもしれない。

 まずは一本。

 続いて二本目。

 士郎は、ここで棒の強化を一時やめた。これ以上は時間を掛けられないと考え直したからだ。

 軽く二本の棒を振ってみる。壁に打ち付けても、手が痺れるだけで全くビクともしない。どうやら強化は成功しているらしかった。

「よし、これで」

「これで? そんな棒で何をする気だ、坊主」

 一も二も無く振り返る。月明かりの差し込む扉の先に、紅い槍を持つ青い男がいた。

「な、に――!?」

「余計なことをすべきじゃなかったな。ああ、いや。尤も、これにつけられてるのを知らなかった時点で、お前の死は確定していたわけだが」

 ランサーが左手で小さな石を摘み上げてみせた。それが何なのか士郎には分からなかったが、しかし聞かなければならない事は決まっていた。

「藍は……藍はどうした」

「あの人形か――ふん。最後は中々だったよ」

 持ち上げられたランサーの右手は、丸く欠けていた。血は止まっているようだが、恐らく右手は余り使えまい。ランサーの言葉からその負傷が藍によってつけ られたものだと知れたが、彼の人形の姿は何処にもなかった。

「てめえええぇぇぇ!」

 ランサーの言葉と、彼女の姿が見えない現実を正しく理解した瞬間、士郎は手に持った棒を振り被り、飛び掛っていた。

 しかし、届かない。あ、というまもなく土蔵の床に叩きつけられたのは、士郎の方であった。

「く、くそ……」

「黙ってたら苦しまないように一撃でやってやる。動くならその分苦しくなるだけだぜ」

 ランサーの言葉は、きっと真実だ。だが、そうそうあっさりと抵抗を止めるわけにはいかないのも確か。士郎は強く棒を握り締め、立ち上がった。その眼に諦 めの感情は無い。

「――そうかい。ま、茶々は入らないだろうが、速攻でやらせてもらう。悪く思うなよ坊主」

「やらせる……かよぉっ!!」

 その時だった。ランサーが、土蔵の中に足を踏み入れたとほぼ同時。

 ――――烈風と閃光が吹き荒れた。

「何――!? まさか貴様!」

 ランサーは異変が起こるや否や飛び退る。これで、謎の光の奔流の中に残されたのは、士郎一人になった。

 既に目は眩み、彼の眼には殆ど何も映っていない。ただ間違いなく感じられるのは、とんでもないものが現れ始めているということだ。目蓋どころか、顔を覆 う腕すら貫通するような光が、やがて収まった。

 光が無くなり、目が漸く見えるようになってきて、現れたものの姿をはっきりと捉えた。

 士郎は再び理解した。それこそが、藍の言っていた『切り札』なのだと。勿論、彼女が置いていったものではない。元々はこの家の所有者が、衛宮切嗣が仕込 んでいたものに違いない。

 しかし、確かに『切り札』は土蔵にあった。そして今初めてその姿を現したのだ。

「問おう」

 声は闇を打ち払うように澄んでいて、

「貴方が――」

 夜は、彼女の前に暗さを失った。

「私のマスターか」

 これが、欠けていたカード――最強の騎士が、現世に降り立った瞬間だった。


天竜の書斎へ

第拾六話へ

第拾四話へ

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu