さらさらと、頬を流れる感触がこそばゆい。
 何かあるのかと思い目を開くと――――エメラルドグリーンの丸い瞳があった。

 「うぉおっ!?」

 驚きながらも、唐突に顔を上げるということをしなかった士郎は、中々いい判断をしたといえよう。相手の目元ほどしか確認できない距離で見られていたのだ。もしもいきなり顔を上げるような真似をしたとすれば、双方痛い目を見るのはまず免れない。

 さて、覗き込んでいたのは誰だろう。士郎が驚きつつも、顔を横にずらして起き上がることで、それが明らかになった。

 「…藍?何だ、藍じゃないか。頼むから驚かせないでくれ」

 「そんなつもりはー、なかったのぉです」

 体を引き、つんとすました顔で答える藍だが、その声は明らかにからかいの色を含んでいた。余りに白々しい様子に、士郎も思わずおいと突っ込む。

 「嘘だろ?」

 「とぉーぜん!冗談ですぅー」

 藍は特に隠し立てはせず、アッサリと認めた。しかも彼女は最近見ていた番組の影響でも受けているのだろうか。軽く反らした胸に軽く指先を当てやや威張るようにし、まるで悪びれた様子がない。そんな彼女に、士郎は朝から一抹の脱力感を覚えずにはいられなかった。

 士郎は、朝からどうしてこんな疲れなければいけないのかと軽い溜息を吐く。それと同時に、そういえばもう朝になっているんだったと今更ながらに気付いた。となると心配になるのは現在時刻である。

 「やべ…今何時だ?」

 「5時47分14秒30なのーです」

 やたら正確な時間を教えてくれる藍だが、士郎はそこに突っ込むということはしなかった。奇しくも彼女のお陰で――或いは彼女のせいでというべきか――意識は急激に目覚めており、現在の自分の格好を省みることも出来ていたので、まずは身支度をしようと言う考えが浮かんだのだ。

 しかし、着替えにと立つ前にもう一つ気になることを聞いておく事にした。

 「桜は?」

 「まだ来てないのです。つまり、着替えるなら今の内ーです」

 ピコンと立てた指で宙に円を描きながら、藍は追加情報を告げた。その彼女を見て、士郎はもう一つ言うことを思い出した。

 「了解。あと、起こしてくれてサンキューな」

 「You're welcomeですぅ」

 士郎の礼への返答を済ませた藍は、ここ数日間そうであった様に、まるで肩を動かさない歩きでするすると土蔵を後にする。

 彼女に続き外に出た士郎は、一旦振り返って土蔵の戸をきちりと閉めた。そして庭側を向き深呼吸――――朝の冷ややかな空気で鼻や肺が驚くが、冷たいだけでなく澄み渡った大気は士郎の気分を爽やかなものへと変えてくれた。

 さあ、もう余りゆっくりはしていられない。毎日毎日後輩に自分の仕事を取られていては、先輩として情けないじゃないか――――


 * * *


 「…あ、先輩。おはようございます」

 「おはよう、桜。進み具合は、と。よし、まだ間に合うな。今日は俺がやるから桜はゆっくりしててくれ」

 「でも…」

 「昨日だって結局夕飯任せちゃったしな。流石にそう何日もやらないのは不公平だろ?」

 「うーん、そうですか?…じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」

 「おう、甘えろ甘えろ」

 朝食の準備は始まったばっかりらしい。まだ材料も出切ってはいなかった。勿論、士郎としてはその方が都合が良いのだから、何の問題もない。

 「さぁて。何を作るかな…」

 今日は朝餉の支度を出来るとあって、士郎は先程藍から受けた疲労感などすっかりといっていい程に忘れていた。まるで主夫の様だが、或いは主夫でもそうなるか怪しいが、本人にとっては至って普通の事らしい。

 彼はとりあえず冷蔵庫の中身を見ていく。当然作る品を頭の中に思い描く為だ。尤も、朝は余り沢山は作れないので、大河や藍には出来れば自重してもらいたいなぁ、と考えていたのはご愛嬌だ。



 無論、その願いがまともに聞き入れられることなどある筈もなく――――

 ――――料理を終え、配膳を終え、頂きますを終えた直後に、士郎はそれを嫌になる程思い知らされるのであった。



   『ああ、やっぱりな』と。



***



 極々最近から衛宮家の食卓において習慣化しつつある、戦場の如き食事時間が過ぎ、軽い後片付けをこなした後にいざ学校と士郎が玄関先に出た矢先の事だった。士郎は後ろから呼び止める声を聞いた。

 「――デァ・ガッテ」

 「……ん?何だ、藍。それとな、その呼び方はやめてくれって言っただろ」

 「聞き流してやるぅのです。それは兎も角、今日は学校に行かない方がいいです」

 碌でもない言葉が聞こえた気がするが、それ以上に登校を引き止められたのは初めてだったので、士郎は軽い驚きをもって藍に振り返った。そして彼は膝を折り、わざわざ彼女の目線に合わせてからただ一言、問い返した。

 「なんでさ」

 藍はすぐには答えない。

 じいっと士郎の顔を確認してから、きっぱりとこう言い切った。

 「顔が悪いーのです」

 「……っはぁ!?」

 ありえない暴言だ。脈絡も何も無いそれに、流石の士郎も仰け反って言葉に詰まる。

 「…もしもし?あのですね、どうして俺は唐突にそんな悪口を吐かれているんでしょうかーー!?」

 「事実を言ったまでですぅ」

 起床時同様、藍に悪びれた様子はまるでない。本人は特に変なことを言ったつもりではなかったらしい。確信犯的だ。

 士郎は自分が何か悪いことしたっけと考え、朝ご飯少なかったかな、と原因らしきものを一つ思いついた。
 尤も、今そんなことを言われてもどうしようもないので、士郎は逃げるように藍に背を向けた。そうやってそのままやり過ごす算段である。策のようで殆ど無策だというのは、言うまでもない。

 「…ああ、もう分かった分かった。夕飯は頑張るよ、だから今は許してくれ。な?」

 士郎はこれが軽いやりあいだと思っていた。しかし、次の藍の声色は、とても軽いものではなかった。


 「――――分かってる?どこが?全然、分かってない」

 一瞬、彼女の声で士郎の背筋が震えた。もう彼女の言葉を軽視、ましてや無視などしてはいけないという直感に従い、士郎は再び藍に向き直る事にした。

 再び士郎の視界に入った藍は少しだけ顔を斜に構え、これ以上ない程真っ直ぐな瞳で彼を射抜ていた。そしてその際立って紅い唇が不吉な言葉を紡ぎ出した。

 「顔が悪い。正確には顔の相が悪いのです。それも最悪の――死相」

 「…死相、だって?」

 士郎の心臓が、一拍強まる。顔が悪いと言われたかと思えば、次には死相が出ているといわれた。多少動揺して然るべきで、彼の反応は正しい。

 ただ、これまでに藍は占いが出来るなどとは言ってなかった。士郎としても不審な何かを感じないでもなかったが、だからといって何の裏づけもないままでは、彼女の言葉を素直に信じて登校拒否、など行える筈もない。

 だから藍が、自分で遊んでいるといってくれるという期待を仄かに抱き、こう言い返すしかなかった。

 「すまん。冗談なら後にしてくれ。学校から帰ってきたら遊んでやるからさ」

 「…長居しないのならいいのですぅ。早く帰ってくるですか?」

 先程の言葉が嘘だとは言わなかった。だが何が何でもに外に出さないという訳ではないらしい。

 「ああ。なるべく早く帰るよ」

 士郎の答えに、聊か不満気ではあったものの、藍は微かに頷き「行ってらっしゃい」を言い、漸く彼を開放した。


 やっとの事で玄関を閉めた士郎は「ふう」と息を吐いて通学路を歩き出した。
 藍の様子は確かに変だったし、気になるといえば気になる。しかし最後には登校を引き止めなかった事から、子供が我侭を言うのに似たものだろうと、士郎は思い込むことにした。


 だから彼は気付かない。彼と並ぶように家々の屋根を飛び回る小さい影を、士郎は終に認識出来なかった。


 ***


 ともあれ、例え何かに気付かなかったとしても世界は回る。そして士郎は学校へ向けて歩みを進め続ける。


 ――と、行く手に赤い人影があった。真紅の外套に艶やかなツーテールの黒髪が舞っている。見間違えようがない。士郎が昨日家に送り届けた、遠坂凛である。

 挨拶をしようとした士郎だが、いざ声を上げようとすると簡単な言葉すら出ない。しかし無理もない。昨日は相手が突発的な事故に巻き込まれた感じがあって、別段気にしなかったのだが、やはり女性にしかも同年代の異性に自然に話しかけるなど、士郎にはとてもじゃないが無理な話だ。

 尤もそれは遠坂凛の方から声を掛けてくるということによって、吹き飛ぶ苦悩でしかなかった。

 「おはようございます、衛宮くん」

 「あ…え、と。お、おはよう、遠坂」

 どぎまぎながらも、反射的に挨拶は捻り出せた。そんな士郎とは対照的に、凛は穏やかに言葉を繋ぐ。

 「昨日はどうも――今度何かお礼させて下さいね」

 「い、いやそんな、当然の事をしただけだし、お礼なんて要らないぞ」

 「そうですか?でもそれだとわたしの気持ちが治まりませんし、ここは一つ人助けだと思って。お礼、受け取ってもらえますか?」

 「お…おう」

 微笑みかけてくる凛の顔を直視できず、士郎は目線を逸らしてしまう。そして上の空でとんでもない約束を了承してしまった。とんでもないとは級友に、特に親友に知られたらという意味であるが、生憎本人は気付く余裕がないようである。

 それから暫く学校に着くまでの間、幾ばくかの会話が続くが、士郎は緊張の余り話の内容をまるで覚えてはいなかった。やがて学生達の姿が増えてくると凛は士郎の先を行くように歩速を早めた。

 「では衛宮くん、また今度」

 「ああ」

 思わぬ緊張の連続ですっかり参る寸前の神経を回復させるように、士郎はゆっくりと息を吐き出した。勿論凛には聞こえないようにである。十分に彼女が離れたのを確認してから、彼も歩みを再開した。

 それにしても、緊張してしまったとはいえ、遠坂凛と話せたことは士郎の心を少々浮かれさせた。何しろ相手は学園のアイドルである。大抵の男子なら、喜ばない訳がない。距離を測るために見送っていた彼女の後姿から、未だに目が放せない。


 と。その時である。

 「と…」

 遠坂凛の姿がやや傾いだ。士郎は思わず声を上げかけたが、すぐに何事も無かったように彼女が立ち去った為、言を続ける事は出来なかった。

 追いついて調子の良否を聞くべきか。それとも見逃した方が彼女の為だろうか。デジャヴュを感じさせる懊悩が士郎の頭の中に生まれる。そうこうしている内に彼も校門をくぐった。


 その刹那、世界が変わった。


 「う…?!」

 おかしい。
 何かが違う。
 何処かが変だ。

 見慣れた、通い慣れた学校が、まるで別世界のように感ぜられる。

 胸がムカつく程どろどろで甘ったるい臭いが鼻を犯す。神経もザリザリと逆撫でされる。外見だけ綺麗に取り繕ろったゴミの山に突っ込まれたような嫌悪感がある。

 そこに居続けるだけでどうにかなってしまう異常な空間に取り残された。そんな気持ちに、士郎は陥った。

 この状況が一分でも、いや三十秒でも続けばおかしくなると思った。



 ――――しかしそれも一瞬の事。


 「……気の、せいか?」

 未だ引き続き、仄かに甘い香りがする気もしたが、最初ほど気になる物ではなくなっていた。

 「衛宮、どうかしたか?具合でも悪いのか?」

 丁度士郎の親友、柳堂一成が声を掛けたのも手伝い、士郎の感覚から違和感は拭い去られてしまう。

 「…ん。いや、何でもない。軽く躓いただけだ。今日はいい天気だから、ちょっと気が抜けてたかもしれない」

 「はは、確かにこの天気ならそういう気にもなろう。…しかしな、もう時間が時間だぞ。急がねばHRに遅れてしまう」

 「そうだな。藤ねえにどやされるのは真っ平だ。急ごう」

 校舎目掛けて早足で進みだした士郎の頭には、もう先程の異常の記憶など微塵も残っていない。当然、遠坂凛の様子が変化した時との関連性など、気付ける筈もなかった。


 これより後は普段どおりの授業。何ら目ぼしい変化は無い。

 ただ士郎は、間桐慎二が欠席しているということが気に掛かった。桜は何も言っていなかったが、風邪でも引いたのだろうか、学内で彼女に会ったら聞いておくことにしよう。そう考えて過ごす内に全ての授業が終わっていた。


 ***


 「…結局桜には会えずじまいか。だけど流石に弓道部に行くのはなぁ」

 まあ何だったら後で電話でもしたらいいだろうと士郎は考え直し、教室を後にした。

 廊下に出ると、遥か西に傾いた夕日が彼の影を長く引き伸ばした。教室に残る生徒は一人もおらず、それどころか、学校に残っている生徒すら少ない。グラウンドで部活をしていた生徒も、既に片付けが終わりそうだ。


 藍には早く帰るといったものの、今の時間はお世辞にも早いものではない。帰宅までにここまで掛かった理由は、機材の修理をしていたからである。学内でも随一のお人好しである士郎が、お願いされた事をおざなりにするなど出来るはずも無い。帰っても特にする事が無いのだから、多少掛かってもいいだろうと彼が考えたせいもある。


 暗くなってから帰ったら怒られるかな、と思いつつ士郎は廊下を歩き続け――またばったりと、遠坂凛に遭遇した。


 会った瞬間、ほんの少しだけ凛の顔が顰められたが、士郎はそれに気付かない。そして彼は、朝出来なかった借りを返すように、凛より先に口を開いた。

 「よお、遠坂。まだ学校にいたんだな。何してたんだ?」

 「…ええ、少々調べ物を。それをいうなら、衛宮くんはどうして?」

 「ん、まあちょっと機材の修理頼まれてな。ストーブとかスピーカーとかそういうの」

 おや、と少し驚いた顔になる凛。

 「衛宮くんはそういうことが出来るんですか?」

 「ああ、まあな。と言ってもちょっとだけだぞ。複雑なのは流石にお手上げだよ」

 「いいえ、それでもストーブやスピーカーの修理が出来るなら大したものです」

 「そう…かな」

 急に照れ臭くなって、士郎は自分の鼻先を掻いた。そして、自分では余り大したことではないと思っていたのに、こうやって女の子に面と向かって言われると、凄いことをしたように思えてくるから不思議だな、という感想を抱いた。

 しかしそこで会話が止まってしまいそうだったので、やや慌てて次の話を繰り出す。

 「そ、そういえば遠坂もそろそろ帰るんだろ?」

 「あ…いえ、そうですね。もう帰りますが」

 「そっか。ええとじゃあ……」

 途中まで一緒に帰ろうか、と言おうとして、それが余りにも大胆な誘いだということに気付き、またも士郎は途中で言葉に詰まった。顔もほんのりと紅潮し始めるが、夕暮れ時ということもあって余り目立たずに済んだのでそれは僥倖だった。

 だが言いかけたまま固まっては都合が悪い。そんな彼の意図を汲んだか、凛の方から誘いの言葉が掛けられた。

 「…その、途中までですけど、衛宮くん?お話し相手になって下さいませんか?」

 「お、おう。全くもってOKというか…遠坂はいいのか?その、俺なんかと帰っても…」

 「あら、何か問題がありますか?」

 こうまでさらりと返されると、士郎としては反論の出しようがない。いや何でもないと適当に誤魔化し、二人揃って帰路についた。



 薄暗い誰彼時、士郎と凛が並び歩く姿を見るものはいない。どうやら学内に生徒は残ってないようだ。

 学校の内外を隔てる校門が近づく。そういえば朝この辺で変な感じがしたっけかと士郎は思い出しつつ一歩、校外に踏み出した。
 すると、どうだろう。まるで重い荷物を漸く降ろされたように、体が軽くなるのを感じた。

 「……あれ?」

 「どうかしました?衛宮くん」

 「いや、何となく……体が楽になったみたいな気がして――いや、多分気のせいだと思うけど」

 くるりと腕を回したりして自分の体を確認している士郎は、凛の目が細められた事に気付かない。だが、彼女も特に何か問い詰めるという事は無かったので、ぱたりと会話が途切れてしまった。

 沈黙が続くとお互いに気まずいのだが、だからといって双方共に何か切り出すという事が出来ない。士郎も男らしくリードしたいと思わないでもないが、女性との交際関係が皆無に近いので、気の聞いた言葉がまるで浮かばない。

 だが、このまま分かれるまで何も話さないのだろうかと、士郎が思ったその時だった。思わぬ所から声が掛けられた。


 「デア・ガッテ。藍は早く帰ってくると聞いたです。なのに、こんなに暗くなるまで学園ラブコメでもやってたですぅ?」


 思わぬ所。それは二重の意である。

 一つ。前後左右の何れでもない、遥か高所から掛けられた声であった事。

 そしてもう一つ。ここにいる筈の無い、いや『いてはいけない』相手の声だったということ。


 聞き間違えであって欲しいと思いつつ、士郎は首から軋む音が聞こえそうなほどゆっくりと上を向いた。しかしやはり彼の希望は叶わない。電柱の天辺に、彼女――藍はいた。


 さあて、彼女はいつからいたんだろうとか、どうやって上ったんだろうとか、下らない疑問が士郎の中に湧き上がる。それは隣で彼同様に、ばっちりと藍の姿を目撃した凛を誤魔化さないといけないという現実からの逃避に他ならないのだが。


 「衛…宮、くん。あの、子は――?」

 しかし、現実は否応なく士郎に現状説明を迫る。恐らくこの場で最も混乱しているのは彼であるのに、非情なものである。

 「あー…その、何だ。一口ではいえない事情があるんだが…」

 何処から説明したものかと士郎が頭を悩ませている間に、いつの間にやら藍は彼の側にまで降りてきていた。騒ぎの元凶であるくせに、「だっこ」とか言い始めるものだから、士郎の苦悩はもう限界一歩手前である。

 何からしていいのかよく分からないから、つい実現可能な事からこなしてしまうというのはよくあるが、士郎もそれに違わなかった為、彼は腕に藍を乗せながら凛に状況を説明する羽目になった。


 ぐっと接近した藍を見て、凛は驚きの混じった声を上げたのが皮切りとなる。

 「…この子、まさか人形――?」

 「あ、ああ。実は、その通りなんだけど――その、この子は…」

 そこで、ぐだぐだと始まらない士郎の説明を、凛は待ったりはしなかった。

 「――やっぱり」

 「……え?」

 間抜けな声を出し、顔を上げた士郎はそのまま固まった。何故なら彼女の、凛の目を見てしまったから。憧れとか気恥かしさとかがいっぺんに吹き飛ぶ、氷の如き冷たい眼差し。士郎はそれを直視してしまった。

 「あ…え、と。遠、坂…?」

 「薄々、そうじゃないかと思ってはいたけど……やっぱり、衛宮くん。あなた――『魔術師』ね」

 総毛立つ。凛の口調は眼差しに負けず劣らず冷たい。そして『魔術師』という単語。幾ら鈍感な士郎でも分かり始めてきた。ただ、感情が理解を頑なに拒む。

 「魔術師って…まさか、遠坂、お前…」

 「…………」

 無言は肯定の意だ。

 遠坂凛もまた、『魔術師』。その事実に士郎は愕然とした。そして彼女が段々と距離を取り、警戒色を強めているのにも気付いた。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ!だからって、どうしていきなりそんな喧嘩腰になるんだ!?」

 「ッ!白々しい…ッ!」

 収めようとする士郎の言葉は、逆に火に油を注ぐ結果となる。それに彼は余りにも凛に集中し過ぎ、懐にいる藍が呼んでいる事にも気付けない。

 「危うく騙される所だったわ。まさか、衛宮くんがそういう事するなんてね」

 「そういう事って何だよ!俺は別に何も…!」

 「でも、詰めを誤ったわ。その子が声を掛ける前に、サーヴァントで仕留めるべきだったのに」

 「聞けよ!」

 二人の会話は平行線。互いに譲れないのだから当然だ。その間にも藍の呼び掛けは強くなっていく。服を軽く引っ張るだけだったのが、終には声も交えた物に。ここまで至れば流石の士郎も気付く。

 「何だよ藍。お前のせいで余計な誤解を…」

 「どうでもいいから早く逃げろです。私では敵わないのです」

 「冗談…ッ!逃がす訳が無いでしょう――!」

 素早く袖を捲った凛の右腕に光が灯る。だが藍は語気を強めて凛に言い返した。

 「『お前も』です!さっさとこの場を離れないと、二人とも死んでしまうです!」

 これには凛も面食らったようだった。

 「…何?どういう…」

 「デァ・ガッテ――衛宮士郎は魔術師だけれども、マスターじゃあないのです。だけどもうすぐここにサーヴァントが来る。お前もサーヴァントを取りに帰りやがれです」

 士郎は困惑の余り言葉が出ないが、今度は凛も同様であった。但し立ち直りは彼女が早い。士郎と藍を警戒しつつ、じりじりと少しだけ後ろに下がったかと思うと、意を決したのか、体を翻して自宅目掛け駆け出した。

 残るは士郎の対応だ。

 「…お、おい藍!ちゃんと説明、」

 「それは後。今はさっさと帰るです」

 藍の言葉に納得がいかない士郎は、まだ動かない。

 「だから!どうして――」

 「…デア・ガッテの、馬鹿」

 なんでさ、等と問い返す時間はもう士郎に与えられなかった。黒さを増した闇から這い出る、一条の紅い筋を見て取ったからだ。

 赤い筋こと真紅の槍を携え、暗がりから出でたのは青い男。しなやか且つ強靭に鍛え上げられた筋肉を真っ青な鎧で覆うその男は、明確な殺意を隠そうともせず、士郎に向かって歩みを止めない。


 どんな馬鹿でも分かる。これは絶体絶命という奴だ。

 「あんたは一体…」

 「その腕にいる人形、微かに魔力を感じるな。てことはお前も魔術師だろう――この時期町にいる魔術師なんざ、マスターかその関係者だろう。坊主、違うといってももう遅いぜ」

 男は士郎の問いに答えた訳ではない。だが、男の言葉の続きは想像がつく。本能的に士郎は駆け出した。そんな事をしても無駄だと、心の何処かで悟っていながら、それでも走る。


 士郎が必死に走る中、藍はというと、彼の腕の中で何故か身を捩っていた。

 「く、そ――!大人しくしてろ…ッ!」

 当然士郎は怒鳴りつけるが、大人しくなるどころか藍は更に大きく動き――仕舞いには腕の中から『擦り抜けた』。自分の後ろに流れていく彼女の姿を、士郎は反射的に目で追う。

 「馬っ、――藍!」

 一見、突拍子も無い藍の行動は、それでもしかし士郎を助けるものであった。

 心臓目掛け、既に放たれていた赤の槍。藍はその先端に、絶妙的にしがみ付き、軌道を逸らした。士郎が藍を目で追い、男から見て半身状態になったのも功を奏し、男の攻撃は完全に外れた。

 「チ」

 しかし男は焦らない。この状況、幾ら攻撃をかわしたとて攻撃主たる男が有利なのは変わりない。士郎が幾ら速く走っても、男の射程圏内からは出られないし、今飛び掛ってきた藍も、彼にとっては然程強い相手と思えなかった。

 さし当たっては、槍の先端にしがみ付いた人形を落とそうかと男は槍を振り――その前に藍が手を離したが、男のバランスは微塵も崩れない。


 男は余裕だ。槍を肩に乗せ、気楽な様子で士郎に語り掛けすら始めた。

 「なあ坊主。もう分かってるんだろ?大人しくやられろ。痛いと感じる前に殺してやる」

 「クソ―――ッ!」

 藍の言う通り、さっさと逃げていたなら状況は少し変わったかもしれない。しかし悔いた所で、今死に掛けているのには変わりない。どうしても逃げられないと確信しているのに、生存本能は逃げ道を探す。


 だが。

 前、後ろ、横。何処にいっても刺し殺されるイメージが、ありありと浮かぶ。 



 死は、依然直前にあり続ける。



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