ライダーとの戦闘。そのマスター、慎二との遭遇。そして逃走。更に止めは、同級生である衛宮
士郎との邂逅と来たものだ。
後始末はさぞかしややこしくて面倒な事になるだろう。――と、思ったのだが。
「意外に――そうでもなかったわね。いや、確かに助かったんだけど」
ふう、とついた溜息が、見慣れた我が家のリビングに溶けていく。
結論から言って、今リビングで寛いでいる事より察せるとは思うが、わたしは無事に帰宅の路につくことが出来た。それは同級生の衛宮くんのお陰であり、本来ならばもう少し何らかのお礼をすべきだっただろう。しかし今日はもう体を満足に動かせる気がしなかったので、仕方があるまい。…や、じゃあ今度彼が困っているようだったら、出来る範囲で助けてあげるという事で。
ちなみに至極あっさりと彼に助けてもらったように書いたが、そうではない。彼の施しを受けるには一つの条件があった。衛宮くんがわたし達のしていたことを、
お人好しで、事情を
知らない
知人の存在というのは、二重の意味でわたしを助けた。前記のように帰宅を手伝ってくれたのは勿論、わざわざ記憶を弄る必要がなかったからだ。シンジという余りに燃費の悪いサーヴァントがいる所為で、碌に魔術も行使出来ない状況にあったのだから、衛宮くんは直接的にも間接的にもわたしを助けたという事になる。
時に、どうやって彼が見たか否かを確かめたのかといえば、彼の言葉と行動からだ。少なくとも、あの戦いを見ていたのならばシンジを抱き起こし、更には背負うなんてことは出来なかった筈。最後のライダーの一撃を見たとしたら、人間誰でも持つ好奇心からそれについて尋ねてくるだろう。……余りにも自分中心な考えになっている気もするが、この際どうしようもない。
兎に角、彼――衛宮くんは、わたし達のただならぬ事情を汲み取ったのか、殊更騒ぎ立てなどはせず、それどころか誰にも見つからないようにこっそりと、わたし達を家までタクシーで送ってくれた。
困ってるんだろう?なら助けないと――誰にも言わないから、さ。
今でも自分で不思議に思う。何故、あの彼の言葉を信じられたのだろう。普通なら信じない言葉の筈だ。
少なくともいつものわたしならば、彼を帰す前に記憶をちょっと見るくらいはして、必要ならそれなりの処置を施して、その後に初めて解放するという流れを1も2もなく実行したに違いない。
だが、今日はそうではなかった。自分自身でも理由が分からない行動を取ってしまった。
――もしかして、わたしは信じてみたかったのだろうか。彼の愚直なまでの実直さを。彼という人間を。
ああ、
なんて、
魔術師らしくないキモチ。
おかしい、実におかしい。何かが変だ。いつからわたしはこんなに弱くなったんだろう?常に魔術師たれ、と努力してきたわたしは一体どこにいったのだろう?
彼が同級生だから判断を甘くしてしまった?
……違う。今回、彼には何の関係もなかった。だからこれでよかったのだ。
そうだ。もう今更考えても仕方のない事だし。後々起こりそうな問題があるとしても、彼があの戦いを言いふらすという事だけであって、いやそれも十分に問題だが、綺礼が適切に処置していれば彼の言葉などでは世間は揺るがない。
よしよし。衛宮くんについての問題はこれで解消だ。
さて、と。
残された問題は、いつまで経っても目を覚まそうとしない、マイサーヴァントだけ…と。
すうっと深呼吸。
「……いい加減に起きなさいっ!」
割と本気の下段突き一閃。
リラックス状態から急に息を乱して、漸くマイサーヴァントことバカシンジも目を覚ました。あ、涎が垂れてる。
「あいっ…たたた……な、何?」
「何だもかんだもないわよ。幾ら戦闘が終わったからといって、すぐに寝こけるなんて――サーヴァント失格でしょうが」
最後に鼻の先を人差し指で弾いてやると、漸くシンジは辺りを見渡してから状況を把握したようだった。
「い…家ですか?良かった、戻ったんですね…」
「ええ、そういうことになるわね」
「…あの、怒って…ます?」
「あら――いいえ?どうしてそう思うのかしら?」
と言ってやると、初日に戻ったように、シンジはびくびくと怯え出した。つくづく失礼な奴である。
失礼といえば端からそうだ。仮にも英霊ともあろうものが、こんなか弱い少女を相手にビビッてどういうつもりなんだろうか。
そして未だに、あー、とか、うーとか言い訳を考えているらしき姿には、溜め息を禁じえない。よくこれで祀られる存在になれたものだ。こいつ、生前は人付き合いが苦手だったに違いない。わたしじゃなくても、100人いれば100人がきっとそう思う。
だがまあ、流石に彼もいつまでも怯えているだけではなかったようだ。
俯き加減でぼそりぼそり…と何やら愚痴り始めたシンジ。しかしながら、本人を前にしてそんな陰口のような行為は気に入らない。言いたいことがあるなら、ちゃんと面と向かっていえばいいだろうに。
「何?」
そういう気持ちもあって、はっきりきっぱりすっぱりと聞き返してあげた。するとシンジはこちらを上目遣いでやや睨み付けるようにし、そして終に感情の堤防が決壊した。
「僕だって…僕だって怖かったんだ!!嫌だ嫌だ!もう嫌だ!あんな思いは、もうったくさんなんだよッ!!」
「……え?」
たった一語しか言えず思わず、その後は思わず絶句してしまった。シンジの意外な言葉はそれほどに強力な威力があった。――今更、事ここに至って、彼は一体何を言っているのか。
「何でよ。何でそんなことを今更言うの…シンジ、あなたはさっきの戦いでも十二分に相手と渡り合えてたじゃない。なのに、どうしてもう戦わないって言うの?」
「う……そ、そうだよ。あの時の僕はどうかしてたんだよ…どうせ次にやったら負けるんだ…だから、戦うなんてしない方がいい」
心の奥底より、溜息が出た。本当に、溜めていた息が出切ってしまった感じだ。
こいつは、このシンジって奴は、どうしていきなり全力で後ろ向きになるのか。さっきまでは多少なりとも高まっていた、こいつに対する株も一気に垂直降下。大暴落も大暴落で、株主ならば蒼白物だ。
いや、現実逃避は兎も角。
「――ふざけないでよ。じゃあ何であんたはここにいるの!」
「知るもんか……」
「し、知るもんかって…!」
ムカつきの余り、やや声を荒げてしまうが、
「…元々、あなたが勝手に連れてきたんじゃないですか!」
またほんの一言がわたしの気持ちを変えた。熱くなり過ぎていた自分が冷や水を掛けられた様に、シンジの放った一言で冷め切ってしまった。そして思い返した。いや、無意識の内に忘れようとしていたことを思い出させられたというべきか。彼にはまだ、『サーヴァントとして戦うのか』と言う質問の答えを貰っていないのだという事を。
わたしは本当に勝手な奴だ。彼の思わぬ力に、浮かれていたのは自分だけだ。あれほど戦えるなら、戦わないなんて選択肢はない。そう勝手に思い込んだのは、わたしなのだ。
シンジは、未だにわたしの質問に答えていない。答えを貰うチャンスはあった筈なのに、貰っていない自分にやや呆れる。ランサーに邪魔をされた時は仕方がないとは言え、せめて町を案内する前にやるべきことであった。
そして、今答えは出た。彼は『戦わない』とそう言った。
……だが、それならばわたしはこいつとの契約を続けるわけにはいかない。本人が戦わないというのならば、貴重な魔力を回してまで、現界させておく理由はない。戦わないサーヴァントに魔力を供給し続け、魔術一つ使えずに死んでしまったとあっては、余りに無駄死にが過ぎる。
シンジは、本当にそれでいいのだろうか?
確かに彼を呼び出したのはこっちの都合だ。だが、英霊として呼ばれたというならば、生前に何らかの未練があったのではないのか?このままでは記憶も戻らず、何が望みだったのかもしれない内に露と消えてしまう。それで、彼はいいというのか?
秒も経たず、考え付いたときには既に口からその質問は放たれていた。
「そ、それは……でも、だって……」
案の定だ。彼はそういった自分の事情すら考えていない。本来なら一番彼が気にする事の筈なのにそこまで考えが及ばなかった。
何故なら怖いから。彼は戦いを怖がりすぎる余り、他にあった一切のことが見えなくなった。
――――『戦いたくない』というのはそんな気持ちより出た言葉だったのだ。つまりは逃げたいと言っているに等しい。
怖いかそうじゃないのか。問われたならば、わたしだって怖いと答えるだろう。だけど、『怖いのは一緒なんだから、あなたも頑張りなさいよ』なんて、無責任なことを言うつもりは毛頭ない。誰にも彼の恐怖を否定なんて出来ないのだ。
戦いとは自分と相手の生死を賭けた物。勝てば生き、負ければ死ぬ。誰だって負けることを考えたら足が竦んで然るべきで、仮にそうじゃない奴がいるとしたらそいつは生物としてどこか壊れている。『生』を欲する『命』を持っているから、『生命』なのだ。死んでも構わないという考えになったら、もはやその時点で生物ではない別のものに変容している。
ああ違う。わたしが言いたかったのはそうじゃない。わたしは単純に彼の答えを聞きたいのだ。
「…ねぇ。本当に戦う気はないの?」
「だ、だからっ!」
「ちょっとだけ聞いて。あなたの力は決して弱くない。寧ろ、ライダーを退散させたんだから強いわ」
シンジは、泣きそうな顔ながら、わたしの言葉をじっと聞いていた。言を続ける。
「わたしは聖杯戦争を勝ち抜くわ。だから、その為にあなたの力は必要よ。…シンジだって、このまま消えたくはないんでしょう?」
「……」
「わたしはマスターだけれど、戦いたくないというあなたに令呪を使ってまで強制させる気はない。もしシンジが非戦の意志を変えて、協力してくれるなら嬉しいわ。――それと考えを変えないというなら、それはそれで構わないのよ。当然契約は切るけど」
シンジはわたしの言葉を聞く内に、下唇を噛むようにして俯いていった。もう昨夜のように邪魔が入らないなら、これが本当の最終確認になる。だからわたしも慎重に言葉を選んで話す。
「あなたの気持ちを聞かせて頂戴。戦う、戦わない。どちらを選んでも責めたり、恨んだりなんてしないから。それは約束するわ」
そうして訪れた静寂。
こちり…こちり…と正確になり続ける時計の音以外には、何も聞こえなくなる。
とても静かだ。
でも、わたしだけに感じられる音もあった。
自分の心音だ。かつてないほどに、高まっている鼓動は早鐘のように高速のビートを刻んでいる。
これから、シンジの答えによってわたしの運命が決まってしまう。らしくもなく、緊張してしまうのも仕方がない。
サーヴァントという一枚しかない切り札を初っ端で失ってしまえば、その後にマスターが辿るべき道は決まっている。
『それ』は怖い。魔術師であるなら何度も直面するが、恐怖は薄れない。先も述べたように、生への渇望無くして生き物は生き物足り得ないのだから当然の感情だ。
―――まあ、いい。兎に角、まずはシンジの答えを聞くことが先決だ。
こちり、こちり、こちり……
長く、待つことになると思った。しかし、シンジが口を動かしたのは思いの他早かった。時間にして60秒。たったの1分だ。
返答は、こうだ。
「僕は……それでも戦うのが、怖いん、です……」
「……そう」
軽い落胆はあるが、想定内ではあった。自分の正体も分からず、能力も碌に知らず、それでも戦うなんて真似が出来る奴こそ珍しいのかもしれない。だから仕方ない。悪いのは彼ではなく、彼に記憶障害が起こってしまうような召喚をした自分なのだ。
……しかし。彼の言葉はまだ終わっていなかった。全てを語ったわけではなかった。
「戦うのは、怖いです…でも……その、僕なんかに出来ることがあるなら…」
「――ぇ?」
「僕でも戦えるって、遠坂さんは言ってくれました。それは実際どうだか分からないけど…だけど―――やります」
「ほ、本当に…?」
正直に言うなら、自分の耳が信じられなかった。シンジに対して失礼だろうとは思うのだが、彼が本当にやる気になるとは――ちょっとしか思ってなかった。
しかし、協力してくれるというのだから、これは僥倖だ。まだ多少の不安は残っているが、それでもこの聖杯戦争を生き残れる可能性がぐんと増した。
いける。これなら本当にいける。
何の根拠もない思い。だけどわたしにはそう思えたのだ。
手元にあるのは、気が弱くてまた戦いを拒むかも分からない、正体不明のサーヴァント。それでも、今のわたしには負けるという気持ちは一片もなかった。
「それじゃあ――改めて宜しく。魔術師兼あなたのマスターの遠坂凛よ」
「は、はい。サーヴァント…かどうかは分からないんですけど、碇シンジです…その、よろしくお願いします」
再度名を交換して、握手。今度の約束は、令呪より堅いことを――祈ろう。