いつもの登校時間を遥かに逸脱した時刻を示す時計を見て、生涯初の自主休校を決め込んだのが十分ほど前。いつもより些か暖かいような気がする廊下を通り、冷水で顔を流したのが五分ほど前か。

 暖かかった廊下とは逆に、絶えず北風が吹き込んでくるような居間で体を震わたのは数秒前。原因を求めてふと天井を仰いだのが今。
 ぽっかりと穴の開いた天井をみて、ようなではなく本当に北風が吹き込んできていると理解した。


 「……って、ちょっとどういう事よ、それっ!?」


 ぼうとすること数秒――後、悲鳴にも近い声を上げてしまった。
 視線の先に広がるのは冬の寒空。雪が降ってないのが幸いだった……いやいや、違う!
 わたしの家の天井はそんな引きつるほど愉快な構造にはなってない。少なくとも昨日まではそうだった。つまり、本来なら空など見える訳がないのだ。

 つい大声を出してしまったのは、そういう事実があったからこそだ。いやしかし、幾ら自分の家で他に誰もいないからとはいえ、遠坂家の一員であるわたしがこんな拳を握り締めて声を張り上げるという醜態を曝してはいけない。

 全く、朝から反省ごとが一つ出来上がってしまったではないか。

 

 

 ――と。


 「あ、あの、ええと遠坂さん…?どうかしたんですか?」


 ひょこりと台所から少年が現れた。エプロンは完全着用、右手にはフライ返しまで装備中だ。本来いるはずのない第三者、それを認めたわたしは握り締めた拳もそのままに、石像よろしく固まってしまった。

 対し、少年は不思議顔をしていること以外は至って自然体だ。本当に極々当たり前のようにそこにいる。

 

 …ちょっと待て。待て待て待て。幾らなんでも、それは余りにも不自然だ。


 「ちょっと待った。確認するけどいい?」

 「はい。何ですか」

 「あなた、誰?」


 ピシリ、と今度は向こうの少年が固まった。よしよしいい気味だ。固まっているのがこちらだけなんて、プライドが許さない。って何を考えているんだ、わたしは。

 ちなみに、わたしが意味のない苦悩をしている間に、彼の方も懊悩していたようだ。 顔を僅かに顰めて、ちょっと泣きそうですらある。

 そんな状態から精一杯絞り出した言葉が、


 「だから、その、記憶がまだ…」


 少年の態度と、歯切れの悪い言葉にちょっとイライラして、そういう事じゃなくて何でわたしの家にいるのか、といいかけたが、向こうの怪訝顔に言葉が止まった。思い返されてきた記憶も合わせて、わたしにストップをかけたのだ。


 「あの…」

 「うん、ちょっと待って。まだ寝ぼけているみたいだから、わたし」


 取り敢えず、パチパチと数回頬を叩いてみる。仄かに痛みが走り、次に血の巡りを感じた。使い古された手段ではあるけど、それで漸く頭も回り始めたようだ。

 

 よし、では確認だ。

 わたし、遠坂凛は、昨晩サーヴァントを召喚した。うん、これは間違いない。
 そしてその後、突然敵のサーヴァントに襲われた。これも間違いない。何故なら、未だにあの緊張感を体が覚えているからだ。思い返すだけで、力が抜けて膝が笑い出しそうになる。

 そうだ、確かそれから急に体中から力を、いや、恐らくは魔力を取られた。しかも多少ではなく、残っていた分をごっそりとだ。




 …… そ れ で ?


 ――ああ。ああ、そうだ。なんてわたしは馬鹿なんだろう。
 何で今頃それに至るのか。下らない質問の他に、真っ先に確認すべき事がある筈ではないのか。

 聖杯戦争を生き抜くための必須条件は、一つにわたしの体調が万全であること。そして…サーヴァントが健在であることの筈だ。それなのにすぐさま思い浮かばなかった自分の迂闊さを呪う。


 「シンジ!怪我はっ!?」

 「……え?…あ、怪我、ですか?」

 「そうよっ、無い!?」

 「…えっと、ないみたいです、けど」


 わたしが急き立てたものだから、一瞬反応が遅れたが、ちゃんと返答は来た。シンジはその言葉通り、一見したところ怪我は無いように見える。だが召還されて間もなく、あんなサーヴァントに襲われたのだ。どこか怪我をしている可能性はある。だから、更に追求をする事にした。


 「本当にないの?隠すと為にならないわよっ」

 「な、何言っているんですか?ほら、怪我なんて無いですよ」


 両腕を動かしたり、体をぐいと捻ったりして、必死に元気さをアピールするシンジ。動かし方に違和感は感じない。痛みを我慢していたとしても、微かな違和感というのは付きまとう。それがないという事は…


 「…よかった。ホントに、怪我はないのね?」

 「はい、大丈夫です」


 微かに笑ってそういったシンジを見て、思わず安堵の溜息をつきそうになって――止めた。これ以上こいつにそんな姿を見せるわけにはいかない。

 彼の無事が確認された以上、他にも確かめておくべきことがある。


 「――ランサーは…そうよ、ランサーはどうしたの?」

 「ラン、サー?あの、ランサーって誰のことですか?」


 ふうぅ。
 いやいや、ここで怒っちゃいけないわ。こういうときに発するべき言葉は、


 「あら?一々、言わなきゃ分からないの?」


 おまけとして、昨晩のようにニコリと笑みを付け加えると、シンジの顔は劇的なまでに引き攣った。
 またこれだ。こっちは笑っているだけなのに、本当に失礼な奴だ。


 「い、いえ!え、ええと分かりました…じゃなくて、分かります!昨日のあの青い人ですよね!?」

 「青い人ねぇ…また直球な表現するわね。それはそれとして、覚えているんならさっさと言いなさいよ」

 「す、すみません…」


 余りにおどおどしすぎの態度に、気持ちがささくれ立っていくのを感じる。
 流石に間桐の方の慎二とまではいかなくても、もう少し自信を持って話してもいいのではないかと思う。


 「で?」

 「…え?」

 「だから、ランサーをどうやって退けたかって聞いているの。まさか倒した、とか?」

 「さ、さあ。倒したかどうかは…その、僕も無我夢中だったから」


 自分でも何をしたのか分からない、といいたい風のシンジだが、そうは問屋が下ろさない。手は異常に開閉を繰り返していて、視線も落ち着きがなく、全体的にそわそわとしているのだ。嘘をついているに決まっている。


 「本当のところを話して。あんた自分で何をしたのか、ちゃんと覚えているんでしょ?」


 びくんと肩が震えた。やはりビンゴだ。


 「……はい。覚えてます」

 「ならどうしてさっさと…」

 「でもっ、ホントに自分でもそう出来たのか、分からないんですよっ!」


 話を聞き、なるほどと納得した。自分での確認が出来ていないから、仕方なく嘘をついたという訳らしい。しかし分からないなりに話せば、少しは進展があるかもしれないものを……そんなに自己完結がしたいのだろうか。

 記憶を無くそうが本質とはそう変わらない。彼は英霊になる前もそうやって一人だけで悩み、一人だけで終わらせてきたのだろうか。全ての問題を。
 人を余り頼らない、そういう所はちょっとだけ…本当にちょっとだけだが、わたしに似ているのかもしれなかった。


 ――あれ、そういえば何か忘れてないっけ。


 「ちょっと…この匂いってもしかして、」

 「え?あ、あ~~!!大変だ!!」


 さっきまでの沈んだ面持ちから一転、外見相応のしかも大いに焦った表情になったシンジは、急ぎ台所に引っ込んだ。多分、この匂いでは幾ら急いだ所で無駄だと思うが……


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 彼の姿が視界から消えたのを確認し、わたしは一つ溜息をついた。こんなに頭が痛くなりそうな位疲れる朝は生まれて初めてだ。そう思いつつ天を仰ぎ、今度は間違えようのない頭痛を感じた。


 ――ああ、そうね。そうよね。天井も直さなきゃいけなかったわね。


 ホント、疲れる朝だ。

 


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