落ち着け、わたし。 兎に角状況を整理しよう。
えーっと、わたしこと遠坂凛は、サーヴァント召喚のため万全を期しまくった上で、儀式に臨んだ。
うん、ここまでは間違いない。
そしてわたしは自分に有利な時間/午前二時に事を始めた。
だけど家中の時計は一時間ずれており――正確にはずれているのを失念していたため、実は午前一時であった。
……うん、OK。 認めたくないけど、これも間違いなし。
でもって召喚は見事に失敗。いや、腕に浮かび上がった令呪からして、一応は成功しているのだろう。
問題は、その場所が見事に私の目の前から離れまくっていたこと。更にもう一つ。
「う、うう……ど、どうしたらいいんだよ……ここはどこ? 僕は、僕は誰なの?」
サーヴァントと思しき奴が、見た目わたしより年下で、カッターシャツとスラックスに身を包んだ、如何にも最近の学生風な記憶喪失の少年だったりするこ と、と。
……静かに纏めてみたけど、やっぱり駄目だ。わたし、本気で今回の聖杯戦争を諦めないといけないのかもしれない。
現状を確認して、とてつもなくネガティブな方向に思考が流れ始めた凛は、
なので取り敢えずは、目の前の少年と意思疎通を図り、辛い現実から一時避難
「……あのさ。アンタそんな格好しているんだし、何か身分証明みたいな物とか持ってないの?」
「……え? あ、そ、そうか、その手が――! ありがとうございます! ちょっと探してみます!」
まるで見通しの利かない闇の中。そこで初めて、一筋の光明を見つけた少年は、ごそごそとポケットを漁り出した。
その直後、彼はシャツの胸ポケットから何かを取りだした。
ただ、その何かは身分証明にはならないと思ったのだろう。チラッと見ただけで、すぐさま床に置いた。
「ちょっと借りるわよ」
「は、はい。どうぞ」
気になったので、近づいてそれを拾い上げてみると、それは十字架のネックレスであった。
しかも、世界最大宗教のシンボルたる、縦長の十字架ではない。 いわゆるギリシャ十字と呼ばれる+の形をしたものである。
いや、そんなどうでもいいことよりも、気になることが一つ。
「ん? 何だろうこのシミみたいなもの……?」
十字架の端にこびり付いた赤黒い何か。 元々それの模様ではなったのか、指で軽く拭うと比較的簡単に剥がれていった。
そこで漸く理解した。
これが単なるシミや汚れなどではなく、
血。
血液。
であるという事を。
「うわ…これってあいつの血、かな?」
静かに呟き、少年の方を見てみる。
少年の容姿は中性的、とそう評すべきか、どこか男っぽくない頼りなさげな感じが漂っている。
腕も腰も、認めたくないけどわたしと同じ位の細さしかない。 こいつ、本当に男だろうか? 実は女が男装してたりはしないのだろうか?
ただ一つ、言えることはある。 彼はどう見てもこのネックレスに血がぶっかかるような生活とは無縁だ。
……それとももしかして、苛められたりした時に付いたのだろうか。 ああ、こいつならそういう事もありえそ…
そこまで考えてから、思いっきり首を振って自説を打ち消す。
待て待て待て。 ありえちゃいけないってば。 呼び出したのが、そんな苛められるような英雄であってたまるか。
もし仮に、それが本当だったとしたら、あいつもわたしも生き延びれない。 いや、今のままでも十分負けそうだが。
ああ、もう。 頼むから外れてくれ、わたしの考え。
「えーと……あった!!」
能天気に上げられた喜声が、またネガティブ思考のドツボに嵌りそうだったわたしを現実に引き止めた。
少年の手に握られているのは、一枚の赤いカード。 さて、一体こいつが誰なのか、これで分かるのだろうか。
「あ…分かった…分かりましたよ、僕の名前!」
「本当!?」
「えっと、はい。 多分僕の写真が貼られてあるから間違いないと思うんですけど」
――ああもう。 グダグダしてないで早く教えなさいって……ええいっ!
「もういいわ、ちょっと見せて!」
「ああっ!?」
ちょっとだけ。ホンのちょっとだけ強引に、少年から赤いカードを奪い――ああいや、拝借する。
表には「NERV」という文字と、一枚の葉っぱ…ナー…じゃなない。 ああ、ドイツ語ね、これ。 なるほど、ネルフか。
「ネルフ。 神経、って意味だったわね、確か。 アンタ一体どんなとこにいたのよ?」
「さ、さあ……?」
分からないのは承知の上。 今のはつい口を衝いて出た、愚痴代わりの問いだ。
更にそのカードを裏返してみると、今度は目の前にいる少年の顔写真と、個人情報がちょっと余計な所まで丁寧に記されてあった。
「あ、碇シンジ、ってのがアンタの名前なのかしら?」
「た、多分…そうじゃないかと思いますけど…」
何かこいつ、わたしが目を向ける度にビクビク震えてない? わたし、そんなに怖いのかしら?
人のこと怪獣か何かと思ってないかしら。 だとしたらちょっとムカつくかも……
しかし、『碇シンジ』、ねぇ――全然聞いた覚えがない名前よね。
…どうしよう。 本当に英雄じゃないのかも。
いやでも、ちゃんと令呪も出てるし、何より自分の魔力が外に向けて――正確に言うのならば、この少年に向けて流れているのが感じられる。
なら、少なくともこいつがただの人間という事はないだろう。 それに先程まで、宙を仄かに舞うエーテルの残滓すらあったのだから、サーヴァントではあるはずだ。
だったらこいつの正体は後回しにして、取り敢えずは、
「じゃあいい、碇シンジ? 私のサーヴァントとなったからには、聖杯戦争にて優勝を勝ち取ってもらうわ。 異存は無いわね?」
「…あの」
早速小さく手を上げて、まるで先生に質問する、気弱な生徒みたいな感じを醸し出すシンジ。 いやぁ、同じ名前でもあいつ慎二とはまるで違うものだ。
「ええ、何?」
「聖杯戦争、って…なんですか?」
――びきっ。
あああ、駄目だ駄目だ怒っては。 こいつは記憶喪失らしいし、その原因はわたしが作ったっぽいし。
何とか深呼吸して自分の気持ちを押さえつけ、その後十分ほどでさらさらと聖杯戦争の何たるかをシンジに説明した。
幸い、記憶力と理解力はそこまで悪くないらしく、一回の単純な説明で、聖杯戦争の概念を心得たようだった。 尤も、理解して貰わないと困るので、伝わって何よりだ。
「それで…聖杯戦争という物は分かりましたけど、それと僕に何の関係が?」
「私と一緒に参加するのよ」
「…誰が?」
「――――――この場にいるのは誰と誰? 私とあんたしかいないでしょ!?」
前言撤回。 こいつ、頭もちょっとアレかも。
わたしがどなってやって始めて、先ほどの私の言葉の意味が掴めたのか、シンジは表情を変えた。
「そ、そんなっ…! で、出来るわけ無いよ、そんな事!! 大体なんで僕が戦いに参加しなきゃならないんだよっ!?」
いや何でって……
自分のサーヴァントにこんな事を言われたのは、聖杯戦争史上わたしが初めてではなかろうか。 ちっとも嬉しくなんか無いが。
「それはアンタがサーヴァントで、わたしに召喚されたからよ。 他に理由が必要?」
「ぼ、僕はただの人間だよっ!? サーヴァントなんかじゃない!!」
…はぁ。 参った。 どうやら本当にサーヴァントの自覚も無いらしい。 記憶喪失だけでも荷が重いのに、これではどうしようもない。
「いやそういわれても…ほら、令呪もあるし。 魔力もアンタに流れていってるみたいだし」
「…………違う。 僕は…人間。 人間、なんだ……」
もう叫ぶ気も失せたのか、ほっとけば泣き出しそうな雰囲気になってきたシンジ。
――記憶もなく、サーヴァントとしての自覚も、一欠片の意気地も見受けられない彼を、わたしはきっと冷たい目で見下ろしているのだと思う。
我ながら酷い奴だと自嘲する。 だがしかし、魔術師とはそうあるべきだろうと無理やりに自分を納得させる。
だから、出来るだけ冷たい声で、彼にこういってやった。
「――なら、契約を解除する?」
彼にとってわたしはきっと、悪魔に見えるに違いない。