碇シンジ。彼の朝は早い。
本来サーヴァントとなった彼に寝る必要はない。それでも寝るのは、未だ体に染み付く習慣のせいだ。或いは一人で起き続けるのが恐ろしいというのも、理由の一つだった。
目を覚ました彼は、すぐ仕事=掃除、洗濯、料理、等々、いわゆる家事に取り掛かる。
無論サーヴァントの使命とは程遠い。ただ、彼にとっては戦いをしろと言われるより、そちらの方がよほどマシだった。
雑巾をギュッと絞り、額の汗を拭うシンジ。
「んー……。今日はこんなところかな」
振り返ると、埃の見えなくなった通路。彼も満足気だった。
日々綺麗になっていく家/一度に掃除できる範囲が広がっていることが、彼に一種の満足と自信を与えている。
それから衣服等の洗濯も済ませ、朝食の準備も終えた。次なる仕事に思いを馳せる/彼の笑みが、苦笑へと変化した。
「さて。遠坂さんを起こしにいかないと」
「遠坂さーん。起きてくださーい」
ノックして声掛け。以前、中に入って起こそうとするも、凛が既に起きていて且つ着替え中だったという、素晴らしい/恐ろしい目にあってから、彼は滅多に入室して起こしに掛かるのをやめている。
代わりに扉越しに呼びかけ。時間の許す限り扉の外から、声を掛け続けるのだ。
「遠坂さーん。もう時間ですよー」
何度目かの問い掛けの後、ようやく呻き声のような返答。
「後……ご」
「後五分だけとか言っても駄目ですよ」 先回りして釘を打つ。 「僕、もう行きますけど、本当に起きてくださいよ」
「わか……った」
返事は頼りない/彼女なら大丈夫だろう。これまでの経験からそう考え、彼はその場を後にした。
「おはよ……」
「おはようございます、遠坂さん」
顔を洗ってきたようだが、まだ酷い顔つきの凛/いつも通りなのでシンジはそれに触れない。
彼女が起きてきたなら、次は朝食だ。元々彼女は朝食を取らない生活だったが、シンジが来てからそれが変化している/仕事を求めた彼が作り始めたからだ。
内容だが、こったものではない。パンを中心に、スクランブルエッグやベーコン等の洋風。量も少なめ。ゆっくり食べても、十分ほどで朝食は終わる。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」
食後には紅茶。香ばしい香りが、凛の鼻腔をくすぐる。
「ん。シンジも紅茶淹れるの上手くなってきたみたいね」
「そ、そうですか?」 嬉しさと共に、これまでの扱きが脳裏に/思わず苦笑い。 「ありがとうございます」
「まあでも」 カップをソーサーに戻す。 「戦いの方でももうちょっと頑張って欲しいんだけど」
「ええっ」
期待を込めた眼差しを凛から向けられ、彼は思わず狼狽した。
「ぼ、僕は、その」
しかし、彼の返事より彼女の方が早かった。
「冗談よ」
「……え?」
「一体どれだけあんたのマスターしていると思ってるの? どう答えるかなんて分かってるわ」
そして、ぴっ、とティースプーンでシンジを指す=ややはしたない。
「そろそろわたしの軽口くらい慣れたらどう?」
「あ、えと……」 カクンと頭を垂れる。 「すみません」
いつも通りの謝罪の言葉/さしもの凛も溜息。
「これじゃまるで、わたしが苛めてるみたいじゃない」
ほんの半分ほどそのつもりなのは秘密。だが、
「ごめんなさい」
意気消沈した彼の顔は、彼女の中のいけない物を疼かせる。
「……うわ」
小さく呻き、そんな自分に驚いたように顔を左右に振って、彼女は誘惑を断ち切る。
「と、とにかく、もう出るから! 家のこととかよろしく!」
気恥ずかしさから早口。一方それを引き起こした張本人は疑問顔だった。
「は、はあ」
「じゃ、行ってきます!」
慌しく飛び出していく彼女を、やや呆然と彼は見送った。しかし、すぐに「あ」と漏らし。
「ちょ、遠坂さん! 鞄! 鞄忘れてます!」
その後、外見からは想像できない健脚ぶりを発揮したシンジのお陰で、凛は一難を逃れる――――のだが、この時の様子を見ていた者がいるのか、「あの遠坂凛が、いたいけな少年を扱き使っている」という噂が流れ、結局彼女は頭を悩ませることになるのだった。
カーテンやらの大きな洗濯物を乾かし終え、一息つくシンジ。悪天候だったので、ちょっと変わった乾燥法を行使し、やや小火を出した以外はほぼ平和だった。
「でも、こっちに点かなくて本当に良かったなあ」
お日様の匂い、ではなくどことなくオゾン臭のする洗濯物を運びつつ漏らす。言葉通り、カーテンは無傷。燃えたのは、庭の一部=無論既に隠蔽工作済みである。
「これだけ綺麗にしたら、遠坂さんも喜ぶかな」
喜ぶどころか、特殊な乾燥法及びそれによる事故で大いに叱られることになる/少年はまだそれを知らない。
「さてと。……これからどうしよう」
一旦仕事が落ち着くと、もうすることがない。外見通りの年齢でないとはいえ、少し寂しい事実だ。腕を組んでしばらく考える彼だが、やはりいつもの結論を出した。
「よし、セイバーさんとこに行こう」
命を掛けて戦いあうサーヴァント同士でありながら、シンジとセイバーは仲が良い。
シンジはセイバーのことを頼れるお姉さんのように慕い、逆にセイバーはシンジを弟のように可愛がっているのだ。
故に、彼が彼女に相談を持ちかけるのは、これが初めてではなかった。
「つまり、シンジはどうしたら強くなれるのかを悩んでいるのですか?」
「ええと。どちらかというと、どうしたら戦いが怖くなくなるのかを教えて欲しいんですけど」
お茶を飲み、静かに問い返したセイバーに、シンジは柔らかく訂正を入れる。
「ふむ」 やや目つきを厳しくする。 「シンジ。貴方は、戦う者達が戦いを恐れていないと考えているのですか」
「え、違うんですか?」
意外だという気持ちが、言葉の端々に滲み出ていた。
「ええ、それは違います。戦いはどれだけ経験しても怖いものなのです」
「そう、なんだ」
頷く。 「もちろん。わたしにも恐怖はあります。戦いを怖れないのは、変人か物狂いぐらいですよ」
変人といっても色々いますがね、と付け加える。
「じゃあ、セイバーさんはどうして戦えるんですか?」
「命を張る理由が、そこにあるからです」
澱みもなくきっぱりと答えた。
「それって」
「はい。マスター――――シロウの命を守ること、です」
何の気負いも、気恥ずかしさも見せず、断言する彼女の姿が、シンジには眩しく映った。しかし、彼女はまた、意外なことを言い出した。
「シンジも十分にそれをしていますよ」
「え?」
「マスターを守ること。貴方は、自分が全く戦えないと思い込んでいますが、立派に守り抜いているではありませんか」
目を閉じ、胸に手をやって、彼女は何かを思い返しながら続けた。
「守ることも、大変な戦いなのです。それをしている貴方は、十分に素晴らしい戦士だ」
彼女にしては珍しくべた褒め/褒められなれてないシンジは、しどろもどろ。
「い、いや、その、えと……ぼ、僕なんて、そんな大したことは、その」
そんな彼を、セイバーは微笑んで見やる。
「いずれ貴方にも分かる日が来るでしょう。――――時間はまだまだあるのですから」
「……?」
彼女の言葉に何か違和感を感じたが、結局どこがおかしいのか、彼は最後まで分からなかった。
衛宮宅を後にしたシンジは商店街へと足を向けていた。まだ日は高いが、今の内に食料を買っておこうと考えたのだ。
「……なんでこんなところに」
「おいおい、そりゃこっちの台詞でもあるぜ?」
しかしまさか、ランサーと鉢合わせるとは思いもしなかった。シンジは知らず、身構えてしまう。
「まあ待て。こんな街中でドンパチするわけにもいかねえだろ?」
う、と言葉に詰まる。 「それは、そうですけど……」
「今日は何もする気ねえよ。さっさと買い物済ませなきゃいけねえんだ」
見ると、ランサーはびっしりと文字が書き込まれたA4ほどの紙を携えていた。
「…………」
あなたも買い物なんてするんですか、と聞ききそうになったが、自分も同じ状況にあるため、シンジは結局何も言えない。
「坊主も買い物か? ここであったのも何かの縁だ。いい店とかあったら教えてくれ」
「え?」
よし、と勝手に頷くランサー。
「じゃ、ここに書いてある奴、全部買いに行くぞ」
「え、いや、その、はいいぃぃ?」
「いや、坊主はいい奴だなあ」
馴れ馴れしく肩を、もとい身長が合わなかったので頭を抱え込むようにして、ランサーはシンジを引きずり始めた。
「あのっ! 僕、まだ何も答えてません!」
「分かってる分かってる。いや、坊主はいい奴だなあ」
「この人、全然人の話聞いてない!」
ああ、人じゃないからかなー、などと見当違いの思いが頭を過ぎる。その間にもずりずりと拉致紛いの行為は続いた。
「誰か助けてー!」
「はっはっは。俺を人攫いか何かのように言うじゃねえよ」
結局、最後までつき合わされたのは言うまでもない。
「あー、疲れた……」
散々ランサーに振り回され、シンジが解放された時には、日が傾ぐ時間であった。
赤い道を一人、疲れ切った様子でトボトボと歩いていると、長い影法師が彼の前で止まっていた。仰ぐように道の先を見た。
「……あ」
「シンジ。あんた何してるのよ」/呆れ声の凛。
「やっぱりシンジ君か」/軽く挨拶してくる士郎。
「遠坂さん! 士郎さん!」
二人の姿を認めるや、シンジは両手のビニール袋を揺らしながら彼らに駆け寄った。
「学校終わったんですか?」
「おう。何だ、丁度良かったみたいだな」
荷物持つぞと、士郎は片手をシンジに向かって伸ばす。
「ありがとうございます。じゃあこっちの方、お願いしますね」
「ああ」
「しかし、また沢山買ったわね」
確かに、凛が覗き込むのも無理がないほど、袋には大量の野菜や肉が詰まっていた。
「あー、その」
まさか、正直に「ランサーを手伝ったら、そのお礼にくれました」などと言える訳がない。
「ええと。おまけですよ、皆優しいですから」
「ふぅん?」
どう見ても信じてない目つき。
「あはは、はは」
乾いた笑みでやり過ごそうとするが、どうにも無理臭かった。
助けの手を入れたのは士郎だ。
「まあまあ、遠坂。お、そうだ。今日家で食べていかないか?」
「あ、いいですね! ね、遠坂さん!」
「わざとらしいわねえ」
ま、いいわと凛。 「精々美味しく作ってよね、士郎」
「ああ、任せろ」
「僕も手伝いますよ」
そして、仲良く三人並び帰路につく。三つに増えた影法師。ひょこひょこと動くそれらは,まるで家族のようで――――。
***
ガツンと言う衝撃と共に、星が散った。
「……っ」
シンジは、いつの間にか自分が岩の上で眠りこけ、そこから落ちて頭を打ったようだと判断した。数秒後には、傷も消え、痛みも引いていた。
「ここ、は」
月明かりも届かない闇の洞窟。それでもすぐに自己進化/小石の数も数えられるようになる。そして、自分の傍に深くローブを被った女性がいることに気づいた。
「キャスターさん」
「やっと起きたのね。いい夢でも見られた?」
「いえ、まさか」
自分の胸に手をやるシンジ。――硬い球の感触があった。
「あれも、あったかもしれない未来、なんでしょうか」
「さあ。あなたが何を見たのかは知らないけれど」 ローブの奥で艶然とするキャスター。 「現実は酷いものよ」
「そう、ですね」
胸を掻き毟るようにぎゅうと手を握り込む――――コアの出力がゆっくりと高まっていくのを感じた。
その脳裏に飛来するのは、所々欠けてしまった記憶/見捨てられた自分/助けてもらった自分。
「そろそろですよね。マスター」
「ええ。行ってきなさい、シンジ」
今のマスターは、本来サーヴァントであるはずのキャスター。そして、敵は。
「――――遠坂さん」
かつてのマスターだった。
少年は、一歩歩く毎に、姿は同じでありながら別の存在へと変わっていく。
その身を包むのは人間が持ち得ない超高密度のATフィールド/生身で宝具すら耐え抜けるであろう怪物/生命の樹を昇り切った第18使徒リリン。
かつて、ヒトと呼ばれる生命体の全てを取り込んだ少年は、一度神にも等しい力を手に入れた。しかし最早それだけの力はない。
何万年も掛かった奇跡の再現には、やはり何万年もの時を必要とする。
だが、絞りかすの力で十分。神の力の残滓は、人一人の力など軽く凌駕する。
それが分かっているからこそ、彼の気分は陰鬱だった。
分かりきった勝負。付いている決着。そんなものには、恐ろしさの欠片も感じられない。
それでも進む。彼に後退の二文字は許されていなかった。戦う力があり、理由がある。ならば進むしかない。
「僕を、僕を捨てたのは遠坂さんだ。だから、今度は僕が」
やっと、月に照らされた彼の目は、どんよりと澱んでいた。
碇シンジはこの日、死んでしまいたくなるほどに憂鬱だった。
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