「……鏡の……鏡の向こうはどうなってるかって、考えたことはあるか?」
「そりゃ決まってるだろう。みんなさかしまになってるんさね――――身も心も。幸も不幸もひっくり返って」

  ――――八房龍之助:作 <さかしまに映る>

 ***

「――――…………」
 なんだ、ここは。
 時空管理局執務官であるクロノ・ハラオウンは、自己の思考が酷く緩慢になるのを感じた。執務官になって、そんな事態に陥ったのは初めてだった。それどこ ろか人生初ですらあった。
 ぼうとした頭でギリギリ思いついたのは、ここはどこかという疑問だけ。自分の目は、正しく現実を写していないのではないか。そんな思いにすら囚われた。
 彼がいる場所は、何の変哲もない薄暗い路地裏――――の筈だった。過去形だ。今は違う。今のそこは、全くの別物だった。

「――――っ」
 いつの間にか止めていた呼吸が、勝手に再開し、思わず咽せかける。恐ろしく濃い血臭のせいだった。
 辺りは、派手にペンキ缶をぶちまけたよりも尚酷かった。壁も地面さえもみな全て。クロノを取り囲む空間そのものが、全て同じ臭いを発し ていた。
 ふと視界を、木っ端となり散らばった人間の骨肉が掠めた。壁の突起に引っかかる臓物、てらてらと艶めく肉塊。べしゃりと音を立てて、消化途中の食料が、 腸から飛び出し落下した。

「う、うぅ……」
 とても正視に耐えない状況。
 いざ踏み入るまで、クロノはこんなことになっているなど、露ほども思いはしなかった。
「どうして、こんな」
 おかしい。こんなのは変だ。彼は口元に手をやり呟きながら、或いは現実から逃れるように後ずさった。
(なぜ、なぜ……そうだ、緊急コール……確か、救援信号を受け取ったんだった)
 思考の海に、無理矢理埋没しようとする。何とか正気を保とうとする人間の反応だった。
 彼思い出したことの始まり、それは緊急の救援信号だった。『闇の書』の守護騎士達と交戦している局員達 の――――
(……いや、そうか。分かったぞ、違うんだな。そもそも、闇の書の騎士達との戦闘ではなかったのか)
 思い返せば、最初からおかしかった。騎士達は、確かに強敵である。だが、局員達のヘルプコールは、余りにも支離滅裂が過ぎたのだ。

(だとしても……それがどうして、こんなことに!)
 なまじ、頭の回転が良いのが徒になった。理解してしまえば、思考の海から浮かんでしまう。再び、恐怖の現実を認識しなければならない。改めて周囲を直視 してしまい、彼の足は震え始めた。

(まだ、まだだ。まだ考えることはある……!)
 騎士達=ヴォルケンリッターは、こんな惨状を生み出さない。対象を殺傷してしまっては、魔力の蒐集ができなくなるから。蒐集 を行った後 に、こうしたのだとしても、それはただの無駄だ。無駄に魔力を浪費する位なら、彼らはすぐに次の獲物を狙う。
 少なくとも、自分が闇の書の騎士ならそうする。主ならそう命じる。クロノは、彼らの行動を脳内で正しくシミュレートしていた。

 それが、逃れようのない疑問を生み出すと知りつつ、彼は突き進む。

 そして至る。――――なら、一体誰の仕業だというんだ? 
「う、ぐ……」
 吐き気を無理やりにでも堪える。これ以上見えない振りを、分からないふりをしている暇はなかった。
 ああ――――と。彼は知らず知らずの内に声を漏らした。耳朶を打つ、ぴちゃりと水っぽい音と、くちゃくちゃと咀嚼の音が嫌でも教えてくれた。
 犯 人は、目の前にいる。

「ふ、うっ!」
 クロノは、無理矢理に自分を鼓舞した。デバイスを構え直す。狭まりそうになる気管を押し広げ、声を絞り出した。
「何者だ! そこで……そこで何をしている!」
 声は、正しく届いたのだろう。くちゃ――と、少しだけ音が途切れた。
 だが、すぐにまた再開した。先と変わらぬペースで、先と変わらぬ音が、クロノを苛立たせる。

「聞こえている、筈だぞ」
 意図的に相手以外を見ないようにする。そうしなければ、この場所で理性を保つ自信がなかった。如何に艦の切り札と呼ばれていても、彼は清浄で正常な人間 だったために。

「おい」
 近づく。ぺちゃ、ぴちゃ、足下から鳴る音が、一歩ごとに彼の現実感を奪っていく。唯一はっきりしてきたのは、咀嚼の音を立てる相手の影だった。
 そしてクロノは、すぐにその影が人間ではないことを知った。
(腕が……なんだ? "大きすぎる"……?)
 体に比べて不釣り合いに膨らんだ右腕が、まず目に付いた。それの先には火箸のように、長く伸びた指と爪がある。酷く鋭い爪だ。長く鋭い爪は、器用に地面 に落ちている 肉片を摘み、鮫を思わせる乱杭歯が犇めく口の中へ放り込んでいた。

 その肉片の正体。酷くバラバラだが、クロノには分かった。あれは、人の、肉だと。
「ちいっ!」怒りからか、それともショックを受けないように脳が興奮を促したからか、クロノの頬に朱が走った。「今すぐ、その行動を止めろ!」
 黒い杖のデバイス=S2Uを突きつけての叫びにも、異形は応じない。黙々と、地面に散乱した人間の――――管理局魔導師の肉を喰らい続けていた。
「くそっ」
 吐き捨て、水色の魔法陣を展開する。得意のバインドで、一瞬にして異形を縛り上げた。
「――――きき、く、ひ? くき、ひ」
 何度か動こうとし、それができないことを悟った異形は、きいきいと油の切れた古いドアのような声を上げた。
「……ふ、う」動けなくなった相手を見て、少しだけ余裕を取り戻した。自分火鳥で対処ができる。ならば、
「時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。局員を殺害し た容疑で君を逮捕す――――」

 予期せず、言葉を途切れさせた。異形に見られた。バインドを受けたままで、それが振り返ったのだ。首を、真後ろに捻りつつ。
 明らかに限界以上の稼働だった。首の肉が千切れていく音がする。なのに、相手は何ら痛がっている様子を見せない。
 異形の口が、か ぱと開いた。
「じぃ……じぃ、くぅうかん、り、き、ききききょぉお、くぅぅううう?」
「――――そうだ。分かったなら、同行してもらう。大人しくするんだ」
 喋るのか。その事実にすら驚きつつ、だが動揺を押さえ込み、忠告した。
 それでも異形は、大人しくなどしなかった。
「きひ。き、ひひ、ひひひ」
 くきくきと異形からする音。きっと笑い声だと、クロノは直感した。
「え、ええええ、さ、さささ、くきき、くった、くたくったくくくったたたたたた、しん、ししし、んんんんんっ、かっ、かか、かかかか か」
「何を……」
 するつもりだ。続けることは叶わない。バインドで縛られた異形の体が、突然ぼこぼこと蠢きだし、束縛を押し返し始めたのだ。

「な、なに?」
「くきっ、くききき! ……無、駄、ダ。無駄無駄無駄無駄無駄ァ! 止められないィ。止めることはっ、何人たりともできない いィィィッ! 総ジテ断ジテ、無駄、無駄無駄ァ!」
「まさか、バインドを引き千切る気か?!」
 急に異形の喋りが流暢になる。もっとも、それを気にする余裕は、クロノに残されなかった。今、目の前で、彼が信頼を置くバインドが、力任 せに引き千切られようとしているのだから。

「さ、させるかっ」
 急ぎ更なる強化を図る。重ねがけを施す。だが悲しいかな、相手の方が数瞬ばかり早かった。
「カカッ!」
「ちぃっ」
 構成の崩壊した魔法が魔力に還元され、宙に消える。またもくきくきと笑い声が聞こえた。解放された化物を見て、加速度的に、クロノの緊張が高まってい く。
「お、前も食ゥぅうウう。そして更なる高みィィィィぃィィィ!」
「させて、たまるかっ!」
 再度バインドを発動しようとしたが、早々に打ち切る。敵が走り出していた。代わりに素早く、スティンガースナイプを放ち、迎え撃った。がんと、強かに異 形の顔らしき部分を打った。

 が、「――――くききっ」
 しかしそれだけ。異形は、ほんの少しも怯まない。おまけに弾は、一度の接触で消滅していた。
「出鱈目な。シールドも展開していないはずなのにっ!」
「ケーッケッケケッ!」
 驚愕を隠せないクロノ。それでも体に染みついた戦闘訓練が、彼に 次の術式を素早く組み立てさせた。
「これで!」
『ブレイズキャノン』
「キィィエッ!」
 最速構築式をもって放たれた熱線。それに対抗したのは、巨大な右手だ。離れた場所でも感じられる突風を起こす右手の一振り。たったそれだけの動きで、ブ レイズキャノンも霞と消えた。

「……じ、冗談じゃない」
 流石のクロノも、背に冷たいものを感じた。発動速度を重視したため、威力が低いのは承知の上だ。だからといって、生身で消せ るような魔法ではないのだ。
 辛うじて爪を焦がしたことなど、なんの慰めにもならない。その爪にしても、異形が一舐めすると元通りに再生するのだから、正に"冗談ではない"。
「くそったれ」
 悪態だけが、彼の精一杯の抵抗だった。

「クヒ、クヒィヒ」
 異形が、右手を顔の前で目一杯に広げて見せる。薄気味悪いまでに嗜虐の表情が、隠れていても感じ取れた。

「喰う、ゾ。……喰うぞ、喰うぞ喰うぞ喰らってやるゥ! 喰う喰う喰う喰う喰ウ喰ウ喰ゥ喰U喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰 喰喰喰喰ゥ ―――――――――ギィィイイイイイ!!」
「喰われてたまるか!」
 異形のいた地面が弾けた。跳躍だ。クロノは瞬時に反応し、背後に跳んだ。同時に、僅かしか持たないと知りつつ、バインドを構築し、異形にぶつけた。計、 十七個の縛鎖の光。更に、飛行魔法も発動し、宙に逃れた。

「クヒィイイイイイ、キィィィィ!」
 バインドは、やはりあっさりと消された。だが僅かでも時間が欲しかったクロノにとって、十分だった。空に浮かぶと言うより、跳び上がり、そして幾つかの 小技と、持ちうる最大の技を同時に構築する。
「小細工はなしだ。空から押しつぶしてやる!」
「やぁぁぁああああっってみろぉぉぉおおおおおお!」
 こちらを仰ぐ異形を見据え、彼は魔力を集中させる。
 いざ、と光球を発生、させかけたまさにその時。背後から雷鳴の轟きを聞いた。そして、黒焦げた何かが落ちていくのを目の当たりにし、最後に少女の声を聞 いた。

「ああ、それは悪くない答えですわ」
『Electro darts』
「!? 誰だっ!」
 慌てる彼をよそに、幾条もの金色の輝きが、彼の周囲を疾駆した。それは瞬く間に異形に迫る。

(雷、撃っ?!) 
 一瞬のすれ違いにも関わらず、クロノはその正体を看破する。更に、その攻撃から、少女の正体を予想する。
(なら、フェイトか! だが、幾ら彼女でも"アレ"相手では……)
 考えが終了するよりも先に、雷のダーツが異形に着弾する。
 ――――壹、貳、參、肆、伍。
 合計五発の雷弾。それらは、一つとして的を外すことなく、突き刺さった。
「ぎゃ、ぎいいぎゃぎいいぃいいい!」
「……き、効い、た?」
 彼の『通用するのか?』という疑問をあざ笑うように、ダーツは実にあっさりと、異形を地面に縫い付けた。両腕、両脚、そして腹。今や怪 物は、昆虫 の標本さながらの醜態を晒していた。
 その攻撃の結果を見て、クロノは矢が自分を迂回しなかった場合を想像し、ぞっとした。だからだろう。自分が先ほど当たりを付けた少女の攻撃ではないと直 感した。
(この攻撃は何だ。――――フェイトでは、彼女ではないッ! これはあまりにもっ!)
 そして、威力もさることながら、電撃のダーツの刺さり方に、クロノは目を見開かざるを得ない。ダーツは、鱗状に異形を覆う表皮の隙間を縫って行われてい たのだ。その隙間は、数ミリあるかないか。全部がそうなのだから、狙って投げたことは間違いない。

(もし、それが自分に向けられたら? ……無傷ではすまないぞ)
 下手人は、敵か味方か。一刻も早く確認しなければならない。やむを得ないと、彼は異形から視線を外し、首を巡らせた。そうして、 やっと一つの姿を捉えた。

 白い。真白い服の少女だった。
 以前、とある事件で魔導師として目覚めた、高町なのはという少女を、クロノは幻視した。だが違う。目の前の彼女と、あの少女とでは、バリアジャケットの 構成がまるで異なる。

 新人魔導師、高町なのはの纏うバリアジャケットと、そこにいる少女の服は、色こ そ確かに同じだ。
 しかし、少女のそれは、スカートから更に細長い三角布が伸び、地面に向いた 側か ら赤い燐光が漏れている。何かを噴出して、空を飛んでいるのだろう。音も、今になって聞けば、なぜ背後を取られるのに気づかなかったのかと思うほど大き い。もし彼女がなのはだというなら、足にピンクの小羽を広げ、優雅に飛んでいる筈だ。

 大体にして髪色が違う。なのはの栗色のツーテールと違い、少女は長い金髪を止めずに流している。
(金髪? だがフェイトでもない)
 次にクロノの頭に浮かんだのは、先ほど思ったのと同じ少女=フェイト・テスタロッサ。しかし、それはすでに否定済みだった。違うと、微かに首を振る。 フェイトのバリ アジャケットのイメージカラーは黒であり、やはり少女とは異なるのだ。

(顔を見れば……いや、知らない相手なら、見ても分からないか)
 少女の顔は、半分がクリスタルバイザーで覆われていた。故に、口以外が確認できなかった。また、デバイスらしき物も見当たらなかった。彼 女は、薄手の白手袋で覆われている手に、なにも所持していない。
 どこをどう確認しても正体不明。その少女に直接問う他、正体を明かす術はない。少女の確認からその結論まで、クロノは約二秒程で辿り着いた。

「君は?」
「…………」
 返答はない。彼が問う間、少女は右手に光の弾を生み出し、地上に向けていた。
「おい?」
「Shut up. イミーヌ。生体反応はありまして?」
『――――Yes. Only one. Near the demon』
「ならさっさと為しましょうの。直接抜きますわ」
 飛行魔法を解除したか、スカートの燐光が止む。そして彼女は急降下を始めた。
「ま、待て!」
 クロノが声を掛けるも虚しく、少女は彼の足下へ一気に下っていく。すれ違いざまに声が掛けられた。
「お坊ちゃん」子供のように高く、しかし、幾分かの歳を感じさせるような不思議な声。「筋は悪くありませんが、ヌルイですわ。魔物を倒すには、こうします の」
「待て、危険だ!」
「心配はご無用ですの」

 忠告を聞き入れることなく、彼女はそのまま異形――――彼女の言葉を借りるなら、"魔物"の傍に降り立った。やけに重い着地音。コンクリートに蜘 蛛の巣を思わせる罅が走る。再び、先の攻 撃の前や探査時にも聞こえた、も う一つの声が上がった。

『Scanning process start――――Done』
 着地音を聞きつけ、魔物が首を伸ばし、唸っていた。
「おぅ、ぉぉおおおお、まえはあああぁぁぁ! あぁあか、ああ、あかかかかかかか、ずきいいいんかああぁぁあぁぁあぁあああ!」
「おや。折角成長したのに、お馬鹿に戻っていますの? まあ、名乗る必要はないようで何よりですわ。そ。紅頭巾参上ですの。――――ふん、惨状の方がよ りぴったりでしょうか?」
 そのまま魔物に馬乗りになる少女。
 はしたなく、しかし、いやらしさは微塵も感じさせない。
 恐ろしいことが起こると、空から見下ろしていたク ロノは、なぜか確信した。

「刃をあたくしに」
『Lightning blade』
 少女が両手の指を、親指を除いて四本立てる。そこから光が伸びた。フェイトのデバイス=バルディッシュから伸びる魔力刃によく似た輝きだった。
「君っ、何をするつもりだっ!」
「何って――――」
 少女の声に、愉悦の色が混じっていたのは、果たして気のせいか。
「――――これにご奉仕して差し上げるだけ(生まれたことを後悔し尽くさせますだけ)で すの」

 ひゅっと、少女の細い息。
 それからすぐに、ガラスを掻いたが如き甲高い高音が響いた。装甲のような表皮の隙間に、魔力刃が突き通された音だった。
 刃が一旦引き抜かれると、血が勢い良く噴き出す。少女自身にも、それはひっかかる。だが少女は怯まない/気にもとめない。寧ろ血流を押し返すように、再 び刃を突き立てて見せた。

「さあ、宝石探しのスタートですの」

 抜く。刺す。抜く。刺す。抜く。刺す。抜く。刺す――――――――。
 何度も、何度でも。数 え切れないほどに繰り返される、猟奇行為にクロノは、声を失った。勿論、そんな彼に何ら構うことなく、少女は淡々と魔物を貫き続ける。

「ギャ、ギギッ! グゲゲゲゲゲ!」
 悲鳴を上げ痙攣する異形。そこに何の関心もないのか攻撃は続く。
 そして具合がよくなったと見るや、彼女は魔力刃を差し込んだまま、ぐいと梃子よろしく働かせた。これまでより大きく表皮が剥がれ、新たに大量の鮮血が吹 き出した。
「そろそろかと思ったのですけれど……まだ、足りませんわね」
 更に魔力刃を突き入れる。ここまでくると、魔物の叫びも大きくなっていた。
「ギイッ! ギギグガギャギ!」
「癇に障る声ですわ。もう少し静かに喚けませんの? ああ、全く。全く本当に。まず喉から潰すべきでしたの」
 言うが早いか、少女は喉元にも魔力刃を突き立て、横に滑らせた。途端、魔物の悲鳴が途切れた。
 溢れ出した噴血が、水っぽい音を立てて彼女に降り注いだ。白かった服が赤に染まっていく。それすら構わず、彼女は攻撃を止めなかった。

「…………」
 あまりと言えばあまりの凶行。だだっ子のように、しかし恐らくは適切に攻撃を続ける彼女の凄まじさに、クロノは、口を押さえて見入ってしまう。

 

「My lord, coming soon」
「ええ、分かってますわ。全く無駄に堅いことですの。さて、確かこの辺りのはず」

 ふと魔力刃を消し、自ら開けた魔物の胸の穴に手を突っ込む少女。
 ぐちゅぐちゅと音を立てて、中を探る。
「あった」やがて、彼女は、ある物をを引き ずり出した。「見付けましたの」
 彼女が掴みだした物は、正に宝石を思わせた。血に濡れ、妖しく光る真球だ。

「ひっ」
 真球を見た魔物が、息を呑む。それは、クロノの所まで聞こえた。信じがたい再生力で喉元を修復したようだが、あまりにも遅く、無駄過ぎた。
「ひ、ひいいいぃぃいいいい! か、かかかかえっ」
「くす。返せ? そう言われたとて、あたくしが返す道理が、はて一体どこにございましょうの。今一度、浮き世に生まれ直し遊ばせ」

 温度を感じさせぬ声で魔物の懇願を切り捨て、そして少女は、宝石様の真球をこれ見よがしに握り潰した。粉々に砕け散るまで勢い良く、恐ろしく強 く。

 途端、
「やめ……ぎぃっ! やぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ AAAAAAAaaaaaaaaaa………………」
 地獄から響く怨嗟の声を魔物が上げた。建物を、地面を揺るがす。耳を劈くような絶叫だった。

 

「……お、おいっ」
 その声で一瞬意識が飛びかけるも、正気に戻ったクロノは、急降下を開始した。だが、もう怪物はそこにいなかった。
「あの化物が消えた……? それに、この臭い――――硫黄、か?」
 異形は煙のように消え去っていた。そして鼻をつく悪臭に、彼は顔を顰めた。
「あれは、一体何だったんだ。それに、君は」
 誰だと問い詰めようとしたところで、言葉を飲み込む。少女のデバイスらしきものの報告で、生存反応があったのを思い出したのだ。まず は、その人物を見つけるのが優先事項。できれば、治療も。
 見れば、既に少女は路地の奥に向かっていた。遅れを取ったが、クロノも続く。

 

 程なくして、息のある者は見つかった。もう、息があるだけに過ぎない人間が。
「…………」
「――――彼は、もう」
「し」
 長くはないのは明らかだった。その局員は、右肩から斜めに引き裂かれ、体の半分以上がない。まだ生きているという事実が、寧ろ不思議ですらあ った。
 それでも、クロノの声を聞きつけ、男は途切れ途切れの声を上げた。
「……ぁ。だ、れか。い、る…………か?」
「はい。ここに」
 素直に応じ、男に近づくと、少女は何の躊躇いも見せず膝を折って、血と臓物に塗れた彼の手を取った。声も魔物に相対していた時とは違う。柔らかさを感じ させる物だった。
「……伝え、て…………ほ、しい」
「ええ、ええ。分かっています。どうぞおっしゃって下さい」
 息も絶え絶えに、彼は残した。名前と、家族に向けたメッセージを。
 そして、
「…………暖かい、手…………だ」
「そう、ですか? ありがとうございます」
 勿論、もうそんな感覚は残っていないだろう。だが彼女は、握る手に僅かに力を込め、静かに礼を口にした。男の頬が微かに動いた。笑おうとしたのか もしれない。
「最後…………あんた……よかっ…………」
「ゆっくりと、お休みなさいませ。どうか、安らかに」

 

 それきり沈黙した男の手を胸に乗せてやり、少女は彼の目を閉じさせた。十字を切り、聖句を口にする。片膝をつき、両手を握り合わせて祈りを捧げる その姿を見て、クロノ も聖王教会式の追悼を捧げた。

 やおら、少女が立ち上がる。
「この方は、お坊ちゃん、あなたのところの所属で?」
「……ああ。最近こちらに出向していた者達だ」
「では後はお任せしても?」
「勿論だ」
 そこでようやく少女が振り返った。やはり顔は隠れて表情は伺えない。

「遅れたが、助力に感謝する。時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。先程の敵について話を伺いたい」
「いえ、それほどでも。あたくしは、特別指定災害対策組織『ニーラ』の試験部隊副隊長兼総副隊長、ナピィカ・カムトゥユンですわ」
「ニーラ?」
「時空管理局?」

 そこで二人揃って首を捻る。互いに、聞き覚えのない組織だった。
「タイム・パトロールですの?」
「……なんでだ」
 ほや?と首を傾げ、素っ頓狂なことを聞かれたため、ついぶっきらぼうに応えてしまうクロノ。すぐにすまないと断りを入れる。
「時間は管理しない。次元世 界の犯罪を取り締まる組織だ」
「ははあ。なるほど」
「君の方は――――ああ、聞く前に顔を見せて貰っても?」
「あら。これは、飛んだ失礼を致しましたの」
 少女が、血塗れの左手の人差し指でバイザーをつつく・あっさりと、顔を覆っていた邪魔者は、光の粒に還元され、さらりと虚空に溶けた。
 しかし、そこから現れた顔を見て、クロノは表情を引き攣らせた。

「え…………」
「ちょーっと。人の顔を見て固まるなんて失礼ですわ。あたくしの顔に付いてますの?」
「いや、ちょっと待ってくれ」
 目を擦り、見直す。だがやはり、クロノの驚きは消えない。なぜなら、どう見ても少女の顔は、
「……フェイト、なのか? フェイト・テスタロッサ、なぜ君がそんな格 好を」

 クロノがそう口にしたのと同時、相手の唇が尖がるのを、彼ははっきりと捉えた。
「つい今し方、ナピィカ・カムトゥユンと名乗ったばかりの筈ですわ。もう忘れましたの?」
「いや、だが」
 戸惑いは消えない。無理もなかった。彼女の顔は、誰がどう見ても、フェイト・テスタロッサその人なのだ。
(なのに、はっきりとフェイトではないと分かる……あの子は、こんな恐ろしい空気を持っていない)
「なぁんか、不穏なことを考えられている気がしますの」
「気のせいだ」
「即答する時は、嘘を吐いているらしいですの」
「……さあな。少なくとも僕は違うよ」
「ふん。どうだか」

 鼻を鳴らし、血塗れの金髪を掻き上げる少女。その姿は、彼女と異形が口にした、ある呼称に即していた。
(紅頭巾、か。なるほど、言い得て妙だな)
 別段現状を変えるでもない、意味のない納得。急いで振り払い、少女をもう一度見る。
「もう一度確認するが、君は本当にフェイト・テスタロッサではないんだな」
「何度も繰り返させないで欲しいですの」
「悪かったよ。本当に驚いているんだ。知っている子によく似ているからな」
「……子」
「? なにか?」
 ふんと再度鼻が鳴る。「なーんでもありませんのっ」
「そう、か?」
「そうですの」
 視線が交差する。その目――――澱みきった汚泥を詰められるだけ詰め込んだように濁ったナピィカの碧眼が、やけにクロノの印象に残った。

「事情を聞きたい。時間を取って貰ってもいいか」
「ええ。こっちも、色々とお話がありますわ。でも、その前にこの方々を眠らせてあげたいですの」
「……ああ、そうだな」
 意味はないが、自分のデバイス=S2Uを額に寄せ、クロノは、ここの拠点に詰めている補佐官=エイミィに、念話を飛ばした。
<こちら、クロノ・ハラオウン執務官。緊急事態発生。敵性戦力の排除は終了しているが、多数の局員が死亡しているため至急人員を手配されたし ――――――――>

 

 ***

 

「総員、注目!」
 凛/職人入魂の鐘を思わせる響き。清浄かつ圧倒的な声量。有象無象のざわめきを一発で無に帰した。

「来た」
 鐘の音を待ち望んでいた者の呟き。彼らにとってうら若き乙女の声は、世界中の誰のものより信に値する響きだった。

 鐘声の主=壇上に立つ、若さと幼さの中間にいる少女。
 爛/太陽を凝縮したかの輝く瞳/程よい高さの鼻梁/瑞々しく小振りな淡紅色の唇/ぷるんと震え、開いた。
「ちゃんと揃っているね」
 一望し、確認の呟き。途端、周囲に下りる弦を弾くかの緊張。まだまだ若い声質に込められた、統率の偉力の証は、何よりも明らかだった。

「よし」一拍置き、「これからわたし達は、ニーラ初の先制攻撃作戦に移ります! 目標は、最古の魔 物! 三強の一角っ! 『鏡』の者っ!」
 そして、と集団の背後を指し示す。「その居 城、『鏡の国』!」

 吼える/謳う。
 一見、ただの高校生と思われる少女。されど自分以上の超 長砲杖――――白/金/銀に彩られた、超魔術砲撃用機長杖をくるりと回す姿は正に偉容だった。

 砲杖――――巨大と言って差し支えないシリンダー装填部=GAU-8 Avengerを思わせるドラムマガジン/百八十センチを超す支持部/蛇のように絡まりながら収束部まで伸びる、魔法エネルギー伝達線/見れば引きつり笑 いしか出ない、大口を開ける最終収束部=いっそ波動砲でも出そう――――実は強ち間違いではない――――で形成された、杖の形を"模しただけ"の超破壊兵 器。

 しかし、余りにも軽々と振り回す物だから、勘違いする者もちらほらいた。
「見た目ほど重くないんだな。……あいてっ」
「バカ言うな。見てろ」
 新人の一人/"発泡スチロールを細工した岩のような物か"と、勝手に思い、すぐさま先輩にひったたかれた。再認識を迫られた。
「見てろってなにを……」
「あれだ」
「あれって?」

 疑問に答えるように、"がすん!"と砲杖が地面に突き立った。
 新人の目が点になる。捲れ上がった地面が、砲杖の強靱さ、重さを、何より雄弁に物語っていた。

「ちょ、あれ」
「総隊長の得物は、魔物殲滅用兵装中最大威力を誇る武装だ。それに耐えるだけの頑強さも質量も、当然備えている。――――始めに教えただろ」
「いや、そんな問題……ですかねぇ、あれェ」
 泣きそうになる新人/総隊長と呼ばれる少女のはためくケープが、悪魔の羽にしか見えていないようだった。

 そんな会話が行われているなど露知らぬ少女=「『鏡の国』の特性は、もう十分に知っていますね? あれは、砲撃全てを跳ね返す魔性の鏡。よって、 わたしを含む長距離砲撃主は、原則あの場所への 砲撃を禁止します!」
「Ma'am」
 少女のものより一回り小さい砲杖を携えた男/手を上げ一歩前に。
「Ma'am、一つ確認をしても?」
「はい。どうぞヴァインさん」
「原則攻撃禁止ということだが……つまり、敵が穴倉から出てきたら、撃っても構わないのですかな」
 ぱっと、少女の顔に満面の笑みが咲く。
「ちゃんと伝わったみたいで結構です。ただし、絶対に撃ち間違えないという条件付きでお願いしますよ!」
「ふ。これは信じられていない! 高々微動する程度の的如き、よもや隊長殿は我々が外すとお思いか?」
 意地悪な問い掛けに、少女は笑顔を崩さない。
「それこそまさか。……あ。それとも、外しちゃうのかなー?」
「NO! 断じてNOですぞ! 同志諸君! 是が非でも応えなければならない信頼を賜ったぞ!」
 "応!"。砲杖を抱えた複数人から声が上がる。纏まり、ずしんと腹の置くまで響く重低音。びりびりと空気や地面が震えた。場の温度を急上昇 さ せた。

 うんと頷き、少女の視線が、別の目的を持った集団に向いた。
「そして、一番重要なのは貴女方です。突入部隊の皆さん。本作戦は、貴方方に掛かっているといっても、過言ではないんですからっ、訓練を思い出して、硬く 握り締めたその拳で、相手をぶん殴ってやって下さい!」
「ひゅう。流石は白雪の姫さん。言うことが違うねぃ。あの訓練を思い出せば、閻魔だって倒せらぁ」
「あれー? 返事が聞こえませーん!」
「へっ。元から、返事なんざ決まってらあ。――――了解だ! なあ、そうだろうが、野郎ども!」
『応!』
 最後は真面目に締めた銀色の騎士with部下達。先行突撃部隊の青年らに、少女はまたも満足げに頷く。だが、それも長くは続かなかった。
「……ん?」少女の眉が顰められる。二、三度、左右を往復する視線は、明らかになにかを探している風情だった。
 不思議に思った、付き人の青年が、あのう と声を上げる。
「月白総隊長殿、如何なさいましたか」
「おかしいなぁ……ねえ、マックさん」
「はっ。何でしょう」
「ナピ……じゃなくて、総副隊長の姿が見えないんですけど。彼女も、今回の作戦参加する予定でしたよね? なにか連絡を受けていませんか?」
「…………え?」
 非の打ち所のない敬礼を決めていた青年。だがその顔色が見る見る内に青へ変化する。
 それで起こっていることを理解し、少女は かっと眦を決した。

「またなの!?」
「え、いえっ、その……総副隊長殿は、確かに総隊長の命令だと……」
「~~~~~~っ! もうっ! もうもうもう! またっ! またですか、再びじゃないですかっ! 前も、そういって騙されたんですよ! なんで学習してな いんですかっ! ああもう、その追求は後にしますから、先に ナピィカ副隊長の行動を教えて下さいっ」
「あの、そのっ、総隊長殿ぉ! 砲杖の先を向けるのは、やめて頂きたく……あいたっ!」
 いつの間に石舞台から抜かれたか/ぐりっ/音を立てて、青年の顎の下にめり込む砲杖。
「どこっ?! 早く! 言って下さい! Harry! Harry Harry Harry!」
「とっ、とととと、突入しましたあっ!」
「だぁあああああっ! やっぱりーーーーーーー!」
 青年からの答えを聞いて、ぐわーと頭を抱える少女。
「ああっ、もう! 何でそんなことをするかなあ、あのバカ頭巾はぁ!」
「ひゃ……た、助かったぁ…………」

 青年への照準を解除/ほっと生きた心地を噛み締める彼を尻目に、砲杖を右手でホールド。左手を自分の耳に。通信機の代わり だった。
「総副隊長! ナピィカ総副隊長! 聞こえますか、っていうか、絶対聞いてるよねぇ?! 返事をしなさいってば、ナピィカ! ……くぉら返事しろバカ頭 巾!  勝手な行動は処罰の対象となるんだからね! 速やかに引き返して合流をしないと、地獄に一番近い特訓ヘ ブンズ・ルートだからねぇっ! う~~~! まだ返事しないのか――――!」
 暴言と丁寧語混じりの問いかけ。しかし、待てど暮らせど返事はない。
「こらっ、いつまでも無視するんじゃないってば! …………ん?」
 二三分程、それを続けただろうか。唐突に、情報統括センターからの緊急暗号通信が、彼女に届いた。
 重要度は"最上"。届いた途端に内容の復号化が始まる。自動で現 れる少女のバイザー。そこだけに暗号の内容が表示された。

「――――――――え」
 それを見て、彼女は、自分の砲杖を落としかける程のショックを受けた。急速に、口の中がからからに干涸らびていくのを、彼女は他人事のように感じてい た。
「え? うそ、まさか、うそ、そんな」
「あ、あの、総隊長?」
 尋常ではない様子/長髪で片目を隠した女性が、少女に声を掛ける。
「何か連絡が? それとも……副隊長に、なにか」
「………………」
「総隊長!」
「――――いいえ、なんでもありません!」
 少女は答えず、代わりに叫んだ。
「総員に通達! 状況を開始します!」
 誰しもがぎょっとする。ここまで切羽詰まった彼女の絶叫など、聞き覚えがなかった。
「月白総隊長! 総副隊長が、どうかしたのですか?!」
「彼女はどうもしていません。ですが彼女を見付け次第、わたしに連絡をして下さい! 緊急の通心回線使用も許可します、以上!」
「き、緊急通心…………っ?!」
 組織の長が、暗殺でもされない限り使われないと言われた代物。その使用許可が出たと言うことで総員が戦く。

「そ、総副隊長が、まさか……」
 死んだか、或いはそれに等しい状況に置かれている。疑念が、新人もベテランを問わず浸透しかけ――――
「狼狽えるなッ!」
「!!」
 その前に、総隊長である少女の烈火で吹き飛んだ。

「わたし達は、人類最後の砦! 明かりであり希望だ! それが怯んで、狼狽えて、一体何とする!」
「そ、総隊長」
「進め! 前へ、前へ、前へ! 振り返るな! 狼狽えるな! 躊躇するな! わたし達が掴むのは、勝利と人類の未来だけでいい!」
 天を指さし、少女が宣言する。そしてぱっと広げた手を振り下ろす。
「進軍だ、戦士達!」一際深く息。「行けっ! 鋭々っ!」
「応ッ!」

 鬨の声。甲冑を纏った騎士達が、一気に踏み切り、地面に穴を開け飛び出していく。あっという間に、その姿は豆粒大になる。F1カー並の速さだっ た。
「うっしゃあ! 突撃突撃突撃ぃっ! 一匹たりとも漏らすなよ! 寝ション弁坊主共!」
「アンタこそ、尿道結石は大丈夫かよ! 血ぃ出してもしんねえぞ!」
「がはは! おい今言った奴、よーく覚えてろ。帰ったらサンドバッグの代理を務めさせる!」
「だが断るッ!」
「お前か! 覚えたぞ!」
「!? しまった!?」

 

 先の雰囲気を一気に払拭し、テンションを上げるためか、かしましく騒ぐ戦士達。少女は、それを静かに見送る。

 しかし、戦士達の姿が殆ど見えなくなると、彼女は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。先の勇ましさとは、まるで別人の弱々しさだった。
「……嘘、だよ」
 震える手。再び緊急通信を開き直す。何かの間違いであってくれと祈りながら。彼女はバイザーの表示を切り替えた。

 だが、何も間違いはなかった。表示は不変だった。先と同じ言葉が繰り返されるだけ。彼女に再び、ハンマーで打つ ような衝撃を与えただけだった。

 

『総副隊長、『ナピィカ・カムトゥユン』のバイタル信号消失。九十九パーセントの確率で死亡と推定』

 

「こんなの、ありえない。あり得ないよ! お願い、嘘だと言って、お願いだから、答えてよ。ナピィカ――――ッ!」
 唇から、血の涙が流れ落ちた。

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