「…めんなさい」


 なに?


 「ごめんなさい…」


 どうして?


 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 謝罪の声は延々と続いた。僕が止めないから続いた。止め処なく続いた。
 その言葉を一つ一つ聞く度に、胸中である感情が膨れ上がっていく。――――溢れるそれを、何とか留めようと、視線を真上に飛ばした。ビルの谷間にある狭い空からは、大粒の雨がばら撒かれている。雨粒は、強く僕を打ち据え、はちきれそうな僕の感情を抑えてくれた。

 少し、冷静さを取り戻した僕は、顔を降ろし、再度彼女を見た。数々の落書きが施され、朽ち始めている壁で区切られた、狭い、一本の道。紙屑、鉄屑、様々なゴミが散乱し、腐臭すら漂う。今日、そこには新しく、大量の血液がぶちまけられていた。壁も、地面も、紅一色で塗り直される。雨によって洗い流されている今でも、十分にここで尋常ならざることが起きたことが分かるだろう。

 ――いいや、今なら過去形ではない。寧ろ現在進行形だ。こうしている間にも、新たに血液は追加されている。地面の上を、水と共に流れている。小刻みに動く『モノ』から、次々に吹き出す、血。その『モノ』を壊し、壁に、地面に、べったりと血を塗りつけた張本人は、不思議に、一滴の血もついてはいなかった。台風の目のように、赤い世界にある一転の白。

 泣きじゃくり、謝る、その白は、彼女は、とても綺麗だった。不謹慎?イカレてる?馬鹿言うな、彼女が綺麗でなくて、この世の何が美だというのか。彼女は美しい、今こそ美しい。そうだ。分かった。胸に沸くこの思いを何と呼ぶのか。これは、恋。恋心。ようやく分かった。こんな、どうしようもないどん詰まりまで来て、やっと僕は、本当に分かった。

 僕は今、本当に心から好きになったのだ。この子を、誰より何より、好きになった。ああ、君が好きです、君を愛している。


  ボクの ( イヌ ) 的彼女



 あらかじめ断っておく。これから先の話は僕の自慢だ。多分に、いや恐らくは間違いなく、一般的常識に照らし合わせるとそうなってしまうのだろう。であるからに、続きを聞きたいのなら、僕の自慢であることを承知して貰った上でにして貰いたいし、聞きたくないのなら即刻この場を立ち去るのをお勧めする。この点は十分かつ十二分に、ご了承を願う。後で僕に文句をつけられても困るので、もう一度だけ繰り返しておくが、自慢話を聞きたくない人は今すぐ立ち去って欲しい。ご承知して頂けたものだろうか。さあ、これほどまでにくどく、シツコク繰り返したのだ。ここまできて立ち去らないとあれば、もう話しても大丈夫であろう。いや、大丈夫じゃなきゃ困る。本当にいいね?構わないね?

 まあ、ちょっとしつこいのが過ぎたかもしれないが、事はなにも難しい話ではない。寧ろ単純かつ明快である。何しろ、僕には彼女がいる、というただそれだけの話なのだ。どうだい、実に分かりやすい物だろう。……尤もそれだけでは先の忠告に意味がないし、余りに寂しいので、幾つか説明を付け加えるとしようか。そうだね、まず、その彼女というのは素晴らしく良い子だ。これは、何がどうあろうと間違いない歴然たる事実だ。もしも僕が一尽くしたなら、百にして返すくらいに、とても良い子なんだ。例えが悪いけど、『忠犬』みたいなものかな。それはもう本当に、よく僕の言うことを、お願いを、聞いてくれるのだ。付き合いはまだまだ長いとはいえない。どちらかといえば短いくらいだけど、色々と世話になってはいるよ。食事、洋服とかは当然のようにで、それこそ趣味のあれこれに至るまでね。……それじゃあヒモ同然だって?別にいいじゃないか。力は、持てる者が振るうべきだよ。ああそうそう、ここから先は更に重要だ。尽くしっ娘タイプの彼女は、一歳年上でね。おまけに器量良し。止めにスタイル良しなんだ。ハハハ、非の打ち所がないってこのことを言うんだろうね。色々してくれるだけあってお金持ちだし、間違いなくパーペキな子だよ。ほら、どうだい?僕の自慢の彼女は。……あのさ、ぶたないでよ?


 しかして僕は――――ぶたれた。殴打された。体の芯まで響いた怪音は、できれば一生響かせたくなかった類だった。……ガゴン゛。

 殴打というからには、つまり平手ではなく、拳骨。拳骨の急速垂直降下。結果は至極当然、滅茶苦茶に痛い。なんら、特別に打たれ強いとかいう特性持ちでもない僕が、一も二もなく、とりあえず非難の声を上げたのも仕方がないことだ。どころか、普通なら瞬間的に殴り返すであろう場面を、言葉で返すに留まっただけ、僕は十分温和な性格の人間と分類されてしかるべきだ。……まあ尤も、腕力でも口先でも争うのは好きじゃないから、やり返さないだけなのだが。

 「あのさ、すっごく痛いんだけど。痛いんですけど。ガンガン、ズキズキしてる。…なに殴ってくれちゃってるんですか」
 「痛くて当然だ。そうなってもらうために強ーく、力込めてやったんだからな!文句言うなら、よーし、もう一発いっとくか?」

 断固拒否だ、脳天ブロック!この野郎、僕をマゾだとでも思っているのか。真っ当なSだぞ。全くもって酷い奴らだ。おまけに、なぜ殴ったのかという説明を求めたのに、その返答すらないときた。どうして殴られないといけないのか、理由を聞かせろ。一体僕が何をしたというのだ?今度は、もっとイラツキの感情を込めて、疑問文を再度投げかけた。すると、それはそれで溜息をつかれた。だから、せめて、理由を教えてから溜息をつけというのに。頭と耳をもう少し働かせろ。…いや、最後の部分は心の中で留めたが。流石に口に出して言う度胸はない。

 「……あのな、本気で分かってないのか?なら分かれよ、今すぐ分かれ!『ここにいる人ら』=『独身貴族(キドリ)』なんですよ、OK?俺らは誰一人として、彼女いないんですッ。羨ましいんだよッ、お前が!彼女持ちのお前が!そんくらい分かれよなぁ!」

 そうだそうだー、と周りからも声が上がった。おいおい、何だそれ。信じられない連中だな。何の為にわざわざ、最初に断りまで入れてやったと思っているんだろうか。自分達で『OK』と判断し聞いておきながら、この辺り実に身勝手な奴らだ。それに泣きながら怒らなくてもいいだろうに。コラそこ、袖掴まない。皺になるから、皺にッ。それに、顔寄せて来るな。……いや、近寄ってくるなってば。…………ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、やめて下さい。本気とかいてマジで怖いから本当にヤメテクレ。

 「……ええと、それはつまり、アレですか。僕が悪いと暗に――もとい明らかにそう言いたいと、そういうわけですか」

 返事が返ってきたのは、なんと全方位から。周り360度より押し付けられる声の圧力は、そりゃもう半端じゃない。――――こりゃあ拙い。四面楚歌どころの話じゃないこの状況は、恐ろしく拙い。ピンチもピンチ、大ピンチですよ僕ってば!まさかとは思ったが、単なる冗談交じりの攻撃と、それに対する同調じゃなかったようなのだ。そんなわけで僕は、生涯で一度たりとも遭遇したくない絶体絶命の窮地に、一瞬で立たされてしまった。

 ――いや、待て。まてマテ、アリエナイ。こんなことになるのが分かっていたら、集団ヒステリーの恐怖とかいう本を、もっと真面目に読んでいたのにッ。いやいや後悔後先立たずだ。読んでもその内容を生かせたかは分からないことだし、なんにしろ今重要なのは本を読んだか読まないかではないから、この思考は打ち切りーッ。

 混乱しつつも落ち着いたところで、なるたけ刺激しないようにそうっと、一応周囲を見渡してみる。が、案の定目に付く奴ら全員の手の動きが怪しい。質の悪い奴になると、乾電池を握っているようだ。ヤッベ、死ねるわ。つーか殺されるッ?!近頃話題の加減を知らない子供達が、よもやこうも近所に、況してやクラスメートにいようとはしらなんだッ。急ごう、急いで逃げなければ、洒落や冗句で済まない。殺されて、死んでしまう前に今すぐ逃げなければ。幸せを語ったが故に地獄に落ちるなんて、オチはオチでも最悪の落ちだ。落ち過ぎだ。考えた奴、地獄に落ちろ。最低最悪の下らない結末なんて欲しくない。僕の人生は、終焉は、最ッ高のものであるはずなのだ。そうなければならない。

 ……ただ、絶望的なことを述べさせてもらうなら、この場から無傷で逃れるなんて無理である。寧ろ、逃げようがあるかどうかが、まず疑問だ。周囲を囲む見慣れた男子クラスメート。全員ではない…だが、かなりの数、いる。僕がもし、某少年格闘士ででもあったならば、逃走経路を確保できただろう。そして、現実はそう甘くない。間隙を縫うように逃げるなんて器用な真似、周囲の人間密度と僕の運動能力に照らし合わせると、どうにも現実的なプランではない。だから、逃げられないに違いない。――――うん、現状と自状から導き出せる、的確な分析をありがとう、僕。『死にますレート』が、例の扉の株くらい跳ね上がった気がする。ちくしょう、暴落しやがれ。

 どうしてくれようか。逃げられないと確定してしまった。抵抗のし甲斐もないほど、決まりきってしまった。ちょっと待った。本当にそうか?勘のいい人ならお気づきだろうが、僕の今の推測は敢えて無視した点が存在する。真実、僕は、死を待つばかりだろうか?――いいや、そうでもない。確かに、"普通なら"逃げるのは無理だろう。だがしかし、何事にも例外は存在することを忘れてはならない。例えば白馬の王子様。毒林檎を食べて死んでしまった白雪姫も、王子様のキステクニックで蘇ったのだ。あの奇跡のストーリーを省いてはならない。

 ……その例だと僕が白雪姫で、白馬の王子様のキスを待たないといけないが――プライドなんて犬にでも食わせてしまえば、何も気になることはない。この窮地を乗り切るためだ、下らないプライドの一つや二つ捨ててしまえ。自分が、王子様を待つ眠れる森の美女と同じなどと認めるなんて、簡単、簡単……じゃねぇよ、どう考えても。ムリ。ムリムリ。やっぱり、無理がある。僕のプライドは、結構高いのだ。故に、大いに気にかかるので言い直しを認めて欲しい。今度はもっと単純だ。僕が助かるには、第三者の介入を待っていれば良い。そういいたかっただけだ。決してこの僕が男色だとか、女装して王子様を待ちたいとか、そういうわけではないのだ。大体、彼女がいるのだから、男性愛好者な筈がない。

 そう、それで、その彼女だ。おあつらえ向きなことに、最初にして最後の手段、最終手段彼女が、もうすぐやって来る。つい先刻、人の壁の間より僕は彼女の姿を捉えたのだ。彼女こそ僕が望む、この場に介入し僕を助け出してくれる第三者。それでいい、王子様が来るなら白雪姫は死なない。できることなら、誰かのファーストパンチに間に合ってくれよ?頼みの綱、ご光臨まで、後五秒…四…三…二…一……零!

 「おーい、るぅくーん。どこー?」

 がらり、と。彼女は、引き開けた扉の隙間より、顔をのぞかせた。人に囲まれ、辺りを伺えない僕でも分かる。なんのことはない、多少見えないとしても、彼女の行動なら予想できるだけだ。それよりも、来たぞ、ついに来た。ついにというほど待ってはいない気もするが、それはそれ、緊張したら相対的に時間は引き延ばされる。命の危機とあってはなおさらだ。さあて、現実に戻ろう。我が王子様ならぬ彼女様、この思いもよらぬ第三者の声に、周りの肉の壁どもが一瞬ざわめくのが分かった。隙も隙間も生まれた。今だ!これ以上ない好機を、圧倒的不利な立場にあった僕が見逃すはずもなく、鞄を片手に掴み、壁の隙間を抜け、一目散に助けの女神の元に駆け寄った。

 …バッチリだ。計算通りだ。僕は、無傷かつ無駄にエネルギーを労さず、ピンチを脱した。嘘ではない。先に、忠告をしても受け入れずに、逆切れしてちょっかいを出してくる痴れ者ども、とあのクラスメートどもを評したが、恐らくそうなるであろうことは予め予想がついていた。だが、こうして逃げ出せる算段があったからこそ、彼女の自慢話をしたのだ。彼女が、そろそろ来るであろうことが予測できていたから、ああやってちょっと危険を冒せたのだ。そう、断じて単に口が滑ったとか、思慮が足りなかったとか、ただ自慢したかったとか言うわけじゃない。全て、僕の、計算ずくである。そんな僕の事情は兎も角、まるで状況を分からない彼女だが、僕の姿を見るや否や、笑顔を開花させていた。

 「あ、るぅくん!」
 「や」

 ひらひらと軽く手を上げて見せると、彼女はますます笑みを深める。全く、いつ見ても彼女の笑みは新鮮に感じる…なんてというと、ただの惚気になってしまうだろうか。ただまあ、彼女の笑みを見る度に惚れ直しているような僕なので、多少人に揶揄されたところで気にはしない。言っても無駄ということだ。

 ちなみに今更のようだが、この助けの女神こと彼女こそが僕の彼女の妃だ。ちなみに『るぅくん』とは、彼女だけが使う僕の呼び方で、やや舌足らずな言い方なのだが、逆にそれがいい。なぜなら、彼女はそんな風に他の人は呼ばない。僕以外の他人に話しかける時は、きっちりと呼びかける。つまり、舌ったらずな風でも、そのように彼女が呼ぶのは自分だけ。なので、何となく名前を呼ばれる度に優越感に浸れるのだ。――――やっぱり惚気だろう。僕は、気にしないが。

 「それにしても今日は、結構かかったもんだね、妃。やっぱり、会長ってのは大変なの?」

 そうなんだよね、と妃は目を閉じ、やや困り顔になって顔を斜にした。正解か。僕は生徒会になんて、絶対立候補なんてしないでおこう。先達の歴史に学ばねば、ただの阿呆である。更なる補足だが、彼女の名前は、妃と書いて、『ひめ』と読む。中々に、読み辛い名前を付けられているものだ。出席簿から、彼女の名前を読み上げる時、あらゆる先生はさぞかし、間違えるかまるで読めないか、どちらかの状況に立たされてきただろう。と、話がずれすぎた。ちょっと黙ってしまった形になった僕を、恐る恐るといった様子で姫が見つめてきていた。ああ、もう。そういうところが、また犬っぽいというのに。

 「…あ、あのあのっ。もしかして怒って、る?」

 ……少し予想外の言葉だ。どうしてそういう結論に至っているのか。すぐに返答しなかったからだろうか。ああそれとも、待たせすぎたのかってことかな。全く、本人が一番分かっているだろうに、僕も態々この話題には触れるべきじゃなかったな。腕力だけじゃなく、口先まで未熟でどうするんだ、僕は。早く挽回しとくが吉だろう。

 「いいや、そんな訳ないよ。あいつらとも楽しく話してたし」

 な?と声を掛けると、辛うじて数名が頷くのが見えた。辛うじて、不思議な表現と思われるだろうが、何故か妃が来た瞬間から、奴らは一時間ほど天日干しされた魚みたいに気弱になっていたから、そう形容したのである。僕がああまで簡単に脱出できたのも、彼らがそういう状態にあったからこそだ。その心情は今一つ理解できないが、何か妃に対して後ろめたいことでもあるのだろう。隠し撮りしたとか、下着とか盗んだとか。……おっと、自分で考えてムカついてきたぞ。明日辺り、根掘り葉掘り聞き出すことにしよう。考えが及ばぬ愚鈍どもに対しての思考をさっさ打ち切り、妃に振り直ると、その顔にはいつも通りの笑みが戻っていた。

 「帰ろッ?」
 「OK、それじゃあお前ら、また明日」

 未だ屍状態の奴らに軽く別れを告げ、僕と妃は帰路に付いた。教室を出て、廊下を渡り、階段を下りて、玄関口へ。薄暗くなってきている中でも、元気に部活動に励む他人を尻目に、僕らは学校を後にする。同じく帰宅する生徒もちらほら見えるが、次第に喧騒は薄れていく。なんだろうか…僕が言うのもなんだが、可愛い笑みを湛える美人の彼女を連れながら、夕日の中をゆっくり歩き帰るなんてまあ――青春してるよなァ、僕ってば。そんな、妙なことをつい思ったためか、僕は普段より饒舌になってしまった。だが手振り身振りも交えて、取り留めなく交わす他愛もない話は、彼女と一緒という理由で何倍にも楽しさが増す。僕と彼女しか知らない、人生最上の時だ。誰にも教えたくないし、誰にも聞かせたくない……こう言うと、まぁたあいつらに叩かれるんだろうな。

 と。
 何を思ったか、妃は小走りで僕の前に回りこんできた。ふわり、と彼女の動きに合わせて揺らぐスカートは、否が応にも僕の眼を誘う。いや、目を奪われるのは僕だけではない筈だ。恐らくは、目が見えてある程度まともな男なら、全員。何て単純、且つ、凶悪な武器だろう。生死をかけた決闘の最中であっても、僕はこっちのほうを見てしまうのではないだろうか。何よりそう思わせるのは、うちの学校のスカートの長さ。他校のものに比べ大分短い。ならば、見ないで済ませられるわけがない!日本人離れしたスタイルを持つ妃の、すらりと伸びた脚線美は、僕を何度だって虜にする。この脚のためなら、例え火の中水の中、どんなことだってできる自信が有る。だがそれは彼女の一パーツに過ぎない。今度動きを見せたのは口だ。小さな、それでいて濡れたような赤い唇が、言葉を紡ぎ出した。

 「ねえねぇ、るぅくん?さっきは何の話をしてたの?」
 「…え、あー。んー。大した話じゃない、んだけど…」

 唇にしても脚にしても、姫の体のパーツは見惚れ過ぎるのが問題だ。お陰でまともに返答する思考も働かない。参ったものだ。さして気にもかけなかったあの雑談など、元々どういう話だったか思い返すのにも一苦労だ。順を追って思い出すしか有るまい。ええと、まずは、姫が中々来ないものだから、僕から高学年の教室に行くわけにもいかず教室で待ってて…そうしたら居残りつつも無駄話を繰り広げていた、他の男子どもに巻き込まれて、そして……?

 「ええっと、何だっけ…そうそう、女子の中で誰が一番可愛いかって話になったんだっけ」

 ぐうっと、顔を近づけられた。気になるんだろうか、やっぱり。だがまあ、如何せん気障な答えになるが、僕の答えは決まっているのだし、余計な心配はしないで欲しいものだ。ちょっと前までならどう答えたかは分からないが、今は一つしか返事できる要素はない。どうして彼女が僕に良くしてくれるかは分からないが、僕だって彼女に、妃に首ったけなのだ。

 「…安心していいよ、妃。僕は他の女子を褒めたりなんてしてないから。まあ、お陰で彼女持ちだってことがばれたけどね」
 「あ…ありがとう~!」

 抱きつかれた。お礼を言われる程のことかは知らないが、色々と柔らかい妃の体がすぐに離れてしまうのもちょっと残念であるので、とりあえず彼女の行動を咎めたりはせず、そのままにしておいた。これも彼氏としての役得役得。人目があったら少し変わってくるが、今は誰もいないようだし、彼女の好きにさせよう。……なんか頭も撫でだしたが、気にしないでおこう。そうして暫くの間、妃のするがままにさせた…のだが。

 「…あれ?」

 妃が唐突に声色が違う声を上げた。どうしたのか問い返そうとするが、その前に頭に鋭い痛みを感じた。今頭に触れているのは姫だ。だが、彼女が何かしたというよりは、元々怪我していた部分に彼女が触れた感じで……

 「ッ!…痛い。痛いよ、そこ。なに、怪我でもあるの?」
 「うん、あるよ。結構腫れてるみたい。…どうしたの?ぶつけた?」

 自分でも触れてみると、確かにたんこぶが出来ていた。転んだり、どこかにぶつけた記憶はない。だが思い返せば…ああ、この箇所は、アレだ。さっきの自慢話の最後に、痛烈な一打を受けた場所に違いない。しかしそうなのだとしても、ここまでなるほどぶつか?普通。僕が打たれ弱いことを除いても、明らかにやりすぎだろうに。

 「…なぁんかズキズキするとは思っていたけど…全く。あいつ本気で叩いたんだな」
 「あい、つ?」
 「ん。そう。名もなきクラスメートの一人。明日お礼決定だ」

 しかし幾ら意気込んでも、女の子に頭を撫でられながらでは、何とも締まらない。……そもそも、一歳しか変わらないんだし、子供じゃないのだからそろそろやめてもらうべきか。これまで放っておいてアレだが、気分が害された今では、ちょっと乗り気がしない。だが妃は、やめるどころか更に行動をエスカレートさせた。昔ながらの対処療法、というか、おまじないの『アレ』を始めたのだ。

 「痛い痛いの飛んでけ~!」
 「…………」

 あああ……。ヤバイ。さっきとは別の意味で、これはキツイ。幾らなんでも、この歳でこれはない。どうやら神様は、僕を助けたようで、ちょっとお怒り気味なのかもしれない。お門違いだぞ、ちくしょう。それでも、恥ずかしさが絶頂に達したからか、痛みがなくなった気にはなった。

 姫に触れられるのは嬉しい。けど、もう頭を撫でられて喜ぶ歳じゃないし、寧ろ恥ずかしい。痛みがなくなったのは良いことだけど、今時今更あのおまじないをされるのは……ねぇ?と心中は実に、複雑にならざるを得ない。よし。何はともあれ、このあっまあまでダルダルのこそばゆい状況を打破しようではないか。

 「ときに妃」
 「ん?何?」
 「お腹空いた」

 雰囲気を変えるため、無理やりに捻り出した言葉ではない。時刻はすでに六時を回っている。育ち盛りで青春真っ盛りの一学生としては、お腹の一つも空こうというものだ。湧き上がる生理的欲求を抑えるには、至極当然ながら食料を摂取しなければならないのだが、生憎家まではお互いにまだまだ。ではどうする。…ね、分かるだろう?こういう時には頼らなきゃ。手持ちも心もとないことだし。

 「るぅくんは、何が食べたい?」
 「軽く食べられるものなら何でも。…あ、ラーメンは却下ね」
 「嫌いだもんね、ラーメン。ちゃんと覚えてるよ。ん…じゃあ、あそこならどう?」

 妃の指差す先には、モスグリーンの看板が印象的な、高いけどそれだけ美味しいハンバーガー店があった。僕程度の小遣いでは……というより、普段の僕では入ろうとも思わない店の一つだが。

 「いいよ、行こう」
 「うんっ」

 ――妃がいるなら構わない。彼女がいるなら、彼女が払ってくれる。だから構わない。そうさ、金がないなら、あるところに頼ればいい。あちらがそれでいい、寧ろそうして欲しいといっているのだから、お互いの利は一致している。ありがとう、妃。僕は今日も、美味しく奢られます。

 結局、僕らが家にたどり着いたのは九時を回った後のようだった。僕は構わないのだが、妃は家の人に注意とかされないんだろうか。ここまで連れ回しておいて言うのも今更だが、少しだけ心配だ。大体、学校を出て約三時間、何をしていたかといえば――――食事だ。幾らなんでも長すぎるって?まあ、詳細は、大人の事情によりカットさせてもらうよ。



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